「ガウル(5)」(2018年01月23日)

インドネシア人の中にも、「gaul」と「bergaul」は違う、という意見を述べる者がいる。
それによれば、「bergaul」は、友達がたくさんいて、いつもみんなとつるんでいるのを
好むような、常に世のひとびととの接触をキープすることを言っているが、「gaul」はト
レンディで最新ファッションを自分のものにし、カッコよさを保ちながら自分が身を置く
環境に溶け込み、その場の空気に違和感を与えず、周りの人間に合わせて行くようなあり
方を意味しているそうだ。

つまりガウルというのは「ピアプレッシャーを負担にせず、積極的にピアグループの中に
溶け込む振舞いを行う」というのがその語義であり、それに付随して「最新流行をフォロ
ーして自家薬籠中の物にする」ことがひとつの付帯要件として出てくるのだろうと思われ
るが、あくまでもそれはピアグループの中でふるまう自分の姿を彩るための小道具であっ
て、本筋はそこではない、ということではあるまいか?

だから、あれこれと奇抜に目を引く飾り物を身に着けまくって、チャラチャラとそれを見
せびらかしている若者を「anak gaul」と呼んでいるケースが現実に存在しているものの、
本来的な意味から言えば「ガウル」という言葉の誤用の例であるという気がわたしにはす
る。


「ガウル」という単語がそのように分析されたいま、「バハサガウル」という名称の意味
合いにわれわれはもっと肉迫することが可能になった。つまりバハサガウルというのは
「ガウルな様式のバハサ」という意味でなく、「ガウルなひとびとが使うバハサ」あるい
は「使用者をガウルと位置付けるためのバハサ」という意味であることがそこから見えて
くるはずだ。

バハサガウルを使うひとは、豊かな社交性を持ち、交際術に長けたひとなのである。それ
がインドネシア文化の中にある「社会人」としての人間の核をなす善の価値観の具現形態
なのだ。インドネシア人が「社会性」という言葉を「社交性」の意味で使うことが多いの
も、人間というものは社会の一員となり、社会構成員のひとりとして、みんなと相和して
生きるのが絶対善であるという原理に根差すものだからだろう。

まったく初対面の見知らぬ人との間でも、まるで十年来の知己のように親しげにふるまい、
自分のアイデンティティや身の上を包み隠さず初対面の相手にあけっびろげに話し、初対
面の相手に向かって相互に歓待や思いやりを示しあうといった、まったくオープンで、他
者に全幅の信頼を置き、相手を仲間として尊重する姿勢がインドネシア人の社会生活で理
想とされている姿であるのは、インドネシアで数年間暮らせばひしひしと感じ取れるはず
だ。

その社会善の本質に今や「ガウル」という言葉が当てはめられたと考えてよいのではない
だろうか。

あるとき、わたしがある大学を訪れて、目指す相手の部屋を探していると、まったく見知
らぬ大学教官のひとりと思われるひとに話しかけられた。そのひとはわたしに用向きを尋
ね、そこへ案内しようと申し出られたので、その好意に従ったところ、話好きのインドネ
シア人だからわたしのアイデンティティを尋ね始めた。どこの会社で働いているのか、と
言う質問に答えを言い淀んだところ、突然さっきまでの愛想は立ち消えて、硬い表情でわ
たしから去って行った体験がある。きっとそのひとの心の内には「Ah, Jepang ini nggak 
gaul.」という言葉がこだましていたにちがいあるまい。[ 続く ]