「コメ中毒(前)」(2018年01月24日)

ライター: 、アッマッ・アリフ
ソース: 2018年1月17日付けコンパス紙 "Candu Beras"

米の値上がりに伴って50万トンの米輸入を決定したのは、脆弱な食糧防衛に対する警鐘
であり、同時に米の自給を指標に置いた国家食糧政策の失敗を映し出す鏡でもある。

米を生み出す稲は、わが国に生育するさまざまな食用食物のひとつでしかないというのに。
それどころかヌサンタラの食糧史の中で稲は、比較的新しい時代に渡来して消費されるよ
うになったものだ。

イネ属に含まれる稲は一万年前に中国とインドではじめて栽培されるようになった。その
後、中国は日本・韓国・ラテンアメリカに稲を広めた。インドは東南アジア大陸部に稲を
広め、インドネシアとマレーシアには紀元前2千〜1千4百年ごろに広まった。

稲を知るはるか以前、ヌサンタラに住んだ最初の現生人類(ホモサピエンス)は狩りで得
られる動物と共に、いも類・バナナ・サゴなどの森林にある食糧に頼っていた。5万年前
にヌサンタラに移住してきた集団であるパプア人社会は、米でないそれらの雑多な食糧を
いまだに食べている。

マルクと北マルクの島々の一部に住むひとびとも同様だ。インドネシア西部地方では、ム
ンタワイ(Mentawai)諸島の伝統社会がサゴ・サトイモ・バナナをいまだに主食にしている。
スラウェシにも米でない食糧の足跡がサゴのバリエーションの形で見つかる。パロポやル
ウのサゴスープ(kapurung sagu)、さらに中部スラウェシではサゴケーキ(tabaro dange)。

しかしそれらローカル食材の多様性は米の広まりによってどんどん圧迫されている。米は
食材の一級品と見なされているのだ。主要食糧源としての米の拡張は、かつてのヌサンタ
ラの諸王国がインドと交流していた史実に見ることができる。そのポイントから見るなら、
ジャワが一番の典型例だ。

インドの影響をあまり蒙らなかったムンタワイの場合、伝統社会の食事パターンであるサ
ゴから米への移行は、ドイツ人伝道者ボルガー(Borger)がシブルッ(Siberut)住民に稲を
植えるよう働きかけた1920年代にやっとスタートしている。

インドネシア独立後、ジャワ偏向レジームは稲のキャンペーンを激化させた。1970年
代に政府は「内陸部住民を貧困から抜け出させる」プログラムを掲げてムンタワイ住民を
強制的に沿岸部に移住させ、結婚予定者に稲の栽培を義務付けた。サゴ・タロ・バナナは
依然として内陸部や老年世代の主食だったが、米は徐々に主食として拡大して行った。
[ 続く ]