「memunyai?」(2018年01月30日)

ライター: オボル財団編集者、ヤンワルディ
ソース: 2017年1月7日付けコンパス紙 "Memunyai?"

mempunyaiという言葉をmemunyaiに替えることに固執している一部のインドネシア語活動
家やオブザーバーの姿勢が、わたしには不思議でならない。昔からインドネシア語話者は
memunyaiでなくmempunyaiの方を選択してきたのである。それどころか、かれらの一部は
わたしがその二語について尋ねると、「memunyaiという単語があったのかね?」と問い返
してくる。

生来のインドネシア語話者にとってmempunyai, mengurung, memukul, menyapu, menusuk
などの単語は、接頭辞me(N)がk・p・s・tの文字/音素/発音を頭字に持つ基語とつ
ながる場合、それらの頭字は脱落するという形態音韻論システム(形態素と形態素が接合
するときの音韻論プロセス)を思い出さなくとも、おのずとそう口を衝いて出てくるので
ある。ましてや、発音系統の近い鼻音(ng, m, ny, n)を探すことさえしないで。話すとき
にそんなことをしていては、話者の頭脳はきりきり舞いだ。言葉を話すときには言語本能
が自動的に活動するから、ラッキーなのである。

言語学者が分析し、抽象化し、結論付けるものが、そのインドネシア語話者の発話データ
なのだ。たとえば言語学者は、mempunyaiの語はmemukul, memaku, memoles, memutihなど
のような頭字を/p/とする他の基語のように/p/が脱落しないのはどうしてか、について調
べる。そのコンテキストにおいて言語オブザーバーはひとつの言語現象を、「mempunyai
はmemunyaiでなければおかしい」というように安直に均一化しないようにしてほしい。
mempunyaiの語に別の法則がからまっているかもしれないのだから。

現実に、me(N)+D(D = k,p,s,tを頭字に持つ基語のケース)形態音韻論システムのコンテ
キストにおいて、頭字の脱落は法則のひとつでしかないのである。この法則はすぐにmeng-
epak, mengesol, mengetikなどの例と衝突する。それらの例は基語の語頭の音素が脱落し
ていない。いや、実例はもっとある。memproduksiやmenstabilkanなど、k,p,s,tの頭字に
子音が続く基語の場合も頭字の脱落は起こらないのだ。

me(N)+D(D = k,p,s,tを頭字に持つ基語のケース)形態音韻論システムにおいては、少な
くとも次の5つの法則がある。
1.基語の頭字のあとに母音が続く場合、mengurung, memasang, menyapu, menusukのよ
うに頭字が脱落する。
2.基語の頭字のあとに子音が続く場合、memproduksi, menstabilkan, mentraktir, 
mengklaimのように頭字はそのまま。
3.基語の頭字のあとに母音が続く単音節語の場合、mengepak, mengesol, mengetikのよ
うに/e/が付け加えらる。
4.頭字を脱落させると別の語と紛らわしくなる場合、mengkajiのように頭字はそのまま。
5.頭字を脱落させると発音しにくくなる場合、mempunyaiのように頭字はそのまま。

5番目の異化法則は昔から種々の実例が知られている。接頭辞ber+ajarも形態音韻論シス
テムの中で異化がなされて/r/がbel-に変化し、belajarとなっている。そのような言語使
用の実態を見る限り、mempunyaiをmemunyaiに替えなければならない強い根拠はないよう
にわたしには思われる。ある言語法則が完璧に実践されていないのは言語使用者に抵抗が
あるからだという理論がある。もし使用者の中のわずかなひとびとが使いにくさを感じて
拒否しているのなら、かれらだけが世間の常識に外れたことをしているわけだが、世の中
の大部分のひとがそうしているのであれば、それは言語法則が適切でないことを示してい
るのだ。適切でないことが抵抗を招き寄せるのである。

言語解析を行っている言語学者や言語活動家の一部がデータに基盤を置かず、自己の理論
に世の中が従うように求めている。それがmemunyaiという言葉を出現させているのであり、
そのようなことは避けられるべきだとわたしは思う。言語はそれを使う者のものなのだ。
だれかが自分の理論に従って作り出した人工的なものでなく、世の中の言語使用者が作り
出しているデータこそが正当な分析対象なのである。