「バハサブタウィは健在(終)」(2018年02月08日)

ハリムルティ氏も類似の意見を述べる。「人間の成長ステップの中で、青春は自分自身を
発見しようとするひとつの時期だ。一般的にその時期のかれらは現状というものに満足で
きない。言葉についても同様だ。ジャカルタ弁が若者の間で旺盛に繁茂しているのも、当
然のことだ。若者のエスタブリッシュメントに対する一種の反抗なのだから。」

< エリートと非エリート >
モダンジャカルタ弁と在来ジャカルタ弁の違いはどうなっているのだろうか?Mトハとザ
イディン・ワハブ両ブタウィ作家の文章をご覧いただこう。
Ape nyang elu lamunin? Aye inget ame si Asan. ...
Entu kan namenye penculikan. Biar pagimane kudu dijeblosin ke penjara. Elu 
setuju apa kagak? ...

おおよそ、そんなものだ。在来ジャカルタ弁はいまでも昔からのジャカルタ住民(ブタウ
ィ種族)の多くが使っている。だがヤッピーや若者のマジョリティはそれを使わない。在
来ジャカルタ弁は古臭い伝統言葉としての特徴をいまだに維持しているのであり、それが
ために、いなかっぺでマージナルな印象を避けようとして、ヤングエグゼキュティブたち
は在来ジャカルタ弁を忌避するのである。かれらにとっては、バハサプロケムのほうがは
るかに見映えが良いのだ。

モダンであろうが在来型であろうが、ジャカルタ弁は元来ブタウィ人のものだったことを
認めなければならない。国の首都としての都市建設がなされるために、自分たちの土地が
オフィスやビルの建設用地として召し上げられるのをブタウィ人は甘受しなければならな
かった。しかたなく、かれらはボゴール・タングラン・ブカシ・デポッに移住せざるをえ
なかったのである。リドワン・サイディ氏によればジャカルタで起こったのは、村の住民
がまるごと他の土地へ移住する村移転でなく、都市移転だったそうだ。(村移転はトラン
スミグラシ政策の中でたくさんの実例がある)

土地を召し上げられなかったブタウィ人はいまでも都内のいくつかの地区に住んでいる。
たとえば、チュンカレン(Cengkareng)、クブンジュルッ(Kebon Jeruk)、クバヨラン
(Kebayoran)、パサルボ(Pasar Rebo)、プロガドン(Pulo Gadung)、そして言わずもが
なのチョンデッ(Condet)。それらの土地で住民は小児・若者から老人にいたるまで、色
濃い在来ジャカルタ弁を日々の暮らしの中で使っている。

話し言葉としてますます広く流行しつつあるジャカルタ弁の影響から、公式国語であるイ
ンドネシア語は自らを守り切ることができるのだろうか?それともジャカルタ弁が、第二
公式国語の座を獲得するのだろうか?それどころか、インドネシア語を駆逐して公式国語
の地位を得るようなことが起こりうるのだろうか?

ブタウィがジャカルタになって、先住者は土地を明け渡し、首都としての都市建設がなさ
れて、ビルが林立した。それがJakarta Punya Gedongの意味だ。しかしジャカルタ弁は
ブタウィ語として残り続ける。それがBetawi Punya Omongの意味するところだ。少な
くとも、ブタウィ人の誇りは生き続けるのである。Nah, ente mo bilang ape?[ 完 ]