「ピサンガダン島(前)」(2018年02月08日)

ミナンカバウの地、西スマトラ州には、ガダン(gadang)という言葉の付く場所や建物がい
ろいろある。ミナン語のgadangはインドネシア語のbesarに当たる言葉で、巨大な伝統家
屋はrumah gadangと呼ばれている。高原都市ブキッティンギ(Bukittinggi)へ行けば、町
の中心に大時計塔のjam gadangが建っており、山岳部へ入って行けばkoto(=kota) gadang
の町がある。他にもpasar gadangやbatu gadangなどもあり、パダン(Padang)市の南部に
はPisang Gadangという名の島まである。

VOCが17世紀にパダンに進出して通商基地を設けたとき、かれらはアラウ川(Batang 
Arau)河口を港として使った。ミナン語でPelabuhan Muaroと呼ばれたこの港は、インドネ
シア語でPelabuhan Muaraとも呼ばれている。ムアロ港を護るかのように浮かんでいるピ
サン島は大ピサン島(Pulau Pisang Gadang)と小ピサン島(Pulau Pisang Ketek)から成
り、大ピサン島にもVOCは港湾施設を設けた。

当初のムアロ港に替わって大ピサン島に港湾機能の主役が移ったのは18世紀初期からで、
そこは19世紀まで使われた。外洋に面した大ピサン島のほうが、海上交通の上ではより
重要な機能を負うことになったようだ。大型船は乗客と貨物を大ピサン島で乗り降りさせ、
そこと本土側のムアロ港ははしけで結ばれた。


1669年8月7日を創設日とするパダン市の歴史はVOCの歴史でもある。西スマトラ
一帯を支配するミナンカバウ王国は内陸高原地区のパガルユン(Pagaruyung)を王都とし、
農業国家としての国家経営を推進した。結果的に海岸部はそのころあまり重要視されてい
なかったのである。だからオランダ人がパダンという海岸都市を建設し、商業の拠点とし
て発展させていく中にこの町の歴史が刻み込まれていった、ということなのだろう。

王都パガルユンはPagarruyungとも綴られる。pagarは垣根、ruyungはenau(砂糖やし)
の木の堅い幹を意味するミナン語だ。短縮されてミナンと呼ばれているミナンカバウ(Mi-
nangkabau)の語は13世紀に起こったマジャパヒッ王国軍の進攻のときの故事に由来する
ものであり、それまではパガルユンというのがこの地を支配した王国の名称だったらしい。
VOCはインドネシア各地に拠点を設けて現地の物産を買い集め、アジア域内通商やヨー
ロッパ市場への商品としてバタヴィアに集積した。インド洋側にできたパダンの港は大型
船用の錨地を持つAクラス港として、VOC〜オランダ植民地政庁がバタヴィア・スラバ
ヤ・スマラン・マカッサルと同一レベルの待遇を与えた。

現在のパダン港はトウルッバユル(Teluk Bayur)に1888年から1893年までかけて
建設された大型港になっており、ムアロ港は古いオランダ時代の名残をとどめるノスタル
ジックな場所でしかなくなっている。これはまるで、スンダクラパ港とタンジュンプリオ
ッ港の関係と瓜二つのストーリーではあるまいか。[ 続く ]