「ブタウィ語を知ろう(1)」(2018年02月09日)

同じ1995年11月12日付けコンパス紙に、もうふたつ同紙の記者訓練指導チームの
書いたブタウィ語に関する論説がある。こちらはバハサブタウィの言語面に焦点を当てて
解説しているもので、バハサブタウィなるものの存在を知らず、バハサガウルに登場する
インドネシア語と思えない単語をジャワ語だと思い込んでいるひとたちに実態を正しく知
ってもらうための情報提示と知識啓蒙にもなるものだ。

Tak kenal maka tak sayang. という箴言は、無知がいかに人間の好き嫌いの感情に影響
をもたらしているかということを述べている。知識を重視しない人間がいかに偏った好悪
の感情を対象物にぶつけているかということに、われわれはもっとセンシティブになるべ
きだろう。

では、「Mengenal Dialek Jakarta」と「Bahasa Juga Mengenal Mode」と題するふたつの
論説をひとつにまとめてご紹介することにしよう。


ジャカルタがメトロポリタンシティになる前、バハサブタウィはかっぺ言葉や非主流言語、
あるいはその他の侮蔑的な表現で呼ばれていた。ジャカルタがあらゆる分野における進歩
のバロメータとしてきらめく姿を顕示するようになった今、世間は見る目を変えた。ジャ
カルタでファッションとなったものは、全国諸都市が競ってそれを真似ている。ジャカル
タは関心の的、模倣のセンターになったのだ。

言葉の面も同様だ。意識するとしないとに関わらず、模倣心理はその分野にまで浸透して
くる。ひとびとはジャカルタ人のようにしゃべることに憧れる。こうしてジャカルタ弁が
ファッションとして全国津々浦々まではびこるようになった。

バハサブタウィ発展史は、同質社会のものではない。異質な文化を背負ったさまざまな人
々の到来が、バハサブタウィを作り上げてきた。そして今や、インドネシアの公式言語た
るインドネシア語に取って代わる代表的話し言葉とまで見られるようになっている。それ
はいったいどうしてなのか?


全国各地のさまざまな種族や社会集団が自分たちの母語の影響を受けつつ地元での共通語
としてバハサブタウィを話したことが、言葉に活力を与えた。ヤヤ・B・ルミンタインタ
ンはクンチャラニンラ著「ジャカルタ南部の村落社会」(1975年)の著述を引用して、
「ジャカルタの原住民は15世紀以来定住するようになったさまざまな種族で構成された。
その世代交代に連れて、それぞれが独自のサブ方言を持つことになった。

ジャカルタ原住民というのは、その過去から「アスリ」ではなかったのだ。つまりジャカ
ルタという都市が形成されて行く中で、そこにずっと以前から住んでいたひとびとではな
かったということだ。」と1981年の著作「ジャカルタの高校でのインドネシア語とジ
ャカルタ弁の使用」に記している。

ジャカルタ原住民を構成した外来種族は、ジャワ・ムラユ・バリ・ブギス・マカッサル・
スンダ・マルデイカたちだ。マルデイカというのは、ポルトガル人がアジア人に産ませた
混血子孫を指している。

歴史家ランス・キャッスルによれば、18世紀までリンガフランカとして使われていたの
は、インドから奴隷としてジャカルタへ連れて来られた混血種族の日常言語となっていた、
訛りのある卑俗化したポルトガル語だった。それをポルトガル語の一方言と見なそう。

歴史家アブドゥラッマン・スルヨミハルジョは1973年の著作「ジャカルタ社会文化史
のいくつかの側面」の中で、「社会生活の中では、ポルトガル語の一方言に加えてムラユ
語がそれと混じり合って使われていた。」と述べている。[ 続く ]