「ピサンガダン島(後)」(2018年02月09日)

ムアロ港にも古いオランダ時代の建物や港湾設備が残されているが、それは大ピサン島も
同じだ。ほぼ無人の島と化した大ピサン島にも、鉄道線路を鉄筋に使ったコンクリート製
の埠頭や建造物が残されている。埠頭は三つ四つあって、倉庫群も四カ所に分散されてお
り、島の南には高さ19メートルの灯台も作られている。

今、大ピサン島にはインドネシア共和国軍が駐留し、オランダ時代の倉庫が国軍の用途に
供され、倉庫のひとつだけが石炭貯蔵庫として使われている。

地元漁民たちの間で埠頭近くの漁場のひとつがムリアム(meriam)という名前で呼びならわ
されていることから、どうやらオランダ船が貨物荷役を行っているとき、貨物が海中に落
ちるという事故がときどき起こっていたのを想像することができる。あるとき、きっと大
砲が一門、海中に落下したのだろう。漁民たちは海底に鎮座している大砲の場所を知って
いるにちがいないのだ。


大ピサン島に、オランダ時代のモニュメントが残されている。そこに刻まれた碑文によれ
ば、それは1859年4月4日に没したひとりのオランダ軍人の戦死を悼む墓碑として建
てられたもので、オランダ王国海軍艦艇モントラダ号に乗り組んでいたその少尉が28歳
の若さで戦死したことを伝えている。

かれはアチェのウエ(Weh)島で勤務した後、モントラダ号に配属され、各地での軍事行動
に従事した。モントラダ号は1865年8月にオランダ植民地政庁が命じたアサハン
(Asahan)、スルダン(Serdang)二王国に対する征服戦にも他の5隻の僚艦と共に出撃して
いるから、スマトラ海域方面に配備されていた艦だったのかもしれない。

少尉はムンタワイ諸島のシポラ島で原住民に殺害され、遺体は大ピサン島まで運ばれて埋
葬された。戦友たちが少尉の復讐を果たし、かれの生前の功績を讃えるためにこのモニュ
メントを建立したとその碑文は述べている。


その状況を見ると、少尉の死は作戦行動従軍中の戦死ではなかったように思われる。ムン
タワイ諸島の反オランダパルチザンによる奇襲がかれの死の原因だったのではあるまいか。
そのモニュメントが大ピサン島に建てられている事実についてパダンのアンダラス大学文
化学部歴史学科教授は植民地支配を蒙った側の立場から、そのモニュメントはムンタワイ
諸島原住民の行った反植民地闘争を証明するものだとコメントする。
「遺体を本土側のムアロに埋葬せずそこに墓を作ったのは、ムアロでそれを行うと本土側
のインドネシア人にムンタワイで起こっていることが筒抜けになり、ムンタワイの状況が
本土側に飛び火することを怖れた結果ではないかと思われる。もちろん実際的にも、島で
埋葬してしまうほうが遺体をまたはしけに乗せてムアロ港に陸揚げするよりも手間が省け
るということもあっただろうが・・・。」

大ピサン島は1970年ごろから行楽地となり、娯楽センターや宿泊施設なども作られて、
にぎわう時代が80年代終わりごろまで続いた。しかし今はヤシ、ビンロウジ、ナツメッ
グ、クローブなどが一部の土地で栽培されているだけのひっそりとした島になっている。
[ 完 ]