「サバンに眠るフランス兵(前)」(2018年02月12日)

インドネシアの全国土を表現する慣用句である「サバンからメラウケまで」のサバンの町
は、スマトラ島最北端のアチェ州バンダアチェの町の北に位置するウエー島(Pulau Weh)
の北海岸にある。

インド洋北部海域、ベンガル湾、アンダマン海、マラッカ海峡という広範な海が眼前に開
けているサバンには、古い時代からさまざまな民族の船が立ち寄った。その海上交通の監
視地点という地理的要衝を利用するために、第二次大戦中はドイツ軍がそこに大型レーダ
ー施設を設ける計画を立てた。インドネシアが日本軍政下にあったからこそ、行えたこと
だ。

つまりサバンは否応なく第二次大戦という戦争に巻き込まれたのである。インドの基地か
ら発進してきた爆撃機による攻撃にさらされ、フランス戦艦リシュリューの艦砲射撃にも
さらされた。イギリス東洋艦隊に配属されたこのフランス戦艦は何度もインドネシアの諸
都市に対する攻撃作戦に参加し、サバンへも複数回にわたってその38cm主砲弾を撃ち
込んだようだ。


サバンの町の西方にあるカシビーチ(Pantai Kasih)にはオランダ人墓地がある。インドネ
シアで一般に使われるオランダ(Belanda)という言葉は決してオランダという国籍や民族
を限定的に意味しているわけでなく、広く西洋人全般を指して使われることがあるから、
オランダ人墓地(kuburan Belanda)という言葉からオランダ国籍者専用墓地という理解を
すると不正確な判断を招くことになりかねない。

その墓地には第一次大戦で没したふたりのフランス海軍兵士も葬られているのだ。第一次
大戦でオランダ本国は中立国の立場を取り、必然的にオランダ領東インド(今のインドネ
シア)も中立地帯となった。そこに連合国に属したフランスの軍人が葬られているのはな
ぜなのか?

第一次大戦中に単独で極東から南太平洋、インド洋の海を駆け巡り、通商破壊作戦に従事
したドイツ帝国海軍軽巡洋艦エムデン号のストーリーがそこにまとわりついている。


中国の青島を租借したドイツ帝国はそこを東洋艦隊の基地とし、マリアナ、パラオ、カロ
リナ、マーシャル、パプアニューギニアなどの島々に持った領地と合わせて、太平洋一円
の利権を維持促進する諸活動を行わせていた。

オーストリア=ハンガリー帝国とオスマントルコとの間で手を結び、ドイツ帝国がイギリ
スやフランスとの間で開始した戦争は、全世界的な規模に拡大して第一次世界大戦となり、
遠く離れた極東や南太平洋地域も戦争から無縁でなくなったのである。大日本帝国もこの
大戦に加わり、イギリス軍に支援されて1914年10月31日から青島攻略戦を開始し
て、ほぼ一週間でそこを守備していたドイツ=オーストリア連合軍を降伏させた。

ドイツ帝国東洋艦隊の主力は日本軍による海上封鎖を予想していち早く青島を脱出し、太
平洋を横断して大西洋に向かう針路を採ったが、軽巡洋艦エムデンは1914年8月14
日に単独で西方に向けて出港した。しばらく太平洋上で各地を巡航したあと、8月24日
に日本が参戦したことを知り、インド洋に向かうことにして夜間にロンボッ海峡を通過し
た。それからジャワ島南からスマトラ島西を経由してベンガル湾に入り、積極的な作戦行
動を展開した。その間、インドのマドラス港にあるイギリス海軍基地への海上からの攻撃
も行っている。[ 続く ]