「サバンに眠るフランス兵(後)」(2018年02月13日)

10月17日までに17隻を槍玉にあげたエムデン号は、連合国側の船舶に乗っていた者
を全員艦内に収容し、船を沈めるなどして敵の軍事力経済力に打撃を与えることを行って
きた。その収容されている者から、エムデン号のカール・フリードリッヒ・ミュラー艦長
は耳よりな情報を手に入れていたのである。

「連合国の艦船はイギリスの牙城である海峡植民地の重要な海軍基地ペナン島を盛んに利
用しているが、ペナン港の地上防衛力はほとんどないに等しいお粗末なものだ。」
そんな情報が手に入ったのも、ミュラー艦長以下エムデン号乗員が敵の捕虜を親切丁寧に
扱い、後に解放され帰国した捕虜のひとりが「丁寧すぎるほどの厚遇を受けた」と語った
ように、エムデン号乗員たちと親しく交わっていたことのおかげだったと言えるだろう。

マラヤに向けて東航したエムデン号は10月25日、艦内に戦闘態勢を発令した。そして
偽装煙突を一本装備させて4本煙突にし、連合国艦艇の間では普通の姿に変えさせた。3
本煙突のまま敵の港に接近すれば、即座に攻撃の的になるにちがいない。


10月28日未明、ペナン港に接近するエムデン号への攻撃はまったく起こらなかった。
港の内外に連合国の重巡が一隻でもいれば、そこから無事で帰るのはたへん困難になる。
きわめて大きな賭けであるのは疑いもないが、そんなことに怯むミュラー艦長ではなかっ
た。

日の出前の薄明かりの下に、ロシアの軽巡洋艦ジェムチュッの姿が見えた。エムデンは砲
撃を開始する。ほどなくジェムチュッの応戦が始まる。エムデンが発射した魚雷でジェム
チュッは間もなく沈没した。

そのとき、港の内外にはフランス海軍の駆逐艦が三隻いた。うちの二隻は修理中であり、
戦闘に加わるどころではない。もう一隻の駆逐艦ルムスケが勇敢にもエムデンに襲い掛か
って来た。ルムスケの発射した魚雷はエムデンに当たらず、反対にエムデン砲手の正確な
砲撃がルムスケを鉄くずに変えた。炎を避けて海中に飛び込んだルムスケ乗員を艦内に収
容したエムデンは、早々にペナン港を立ち去った。幸いなことに、エムデンの行く手を阻
む者も、追撃してくる者もいなかった。

エムデンが収容したフランス海軍兵員は36人で、負傷者が20人ほどいた。エムデン号
はそのまま西に向けて針路を採り、スマトラ島北端にあるアチェのサバン港に入ると、負
傷者を上陸させた。オランダ側はフランス人負傷者を受け取ると、サバンにある海軍病院
に収容して治療したが、そのうちの二名が手当の甲斐なく死亡したためサバンの墓地に埋
葬された、というのがそのストーリーだ。フランス政府は1922年にその二名の墓所を
公認している。

中立国は戦争当事国の艦艇を24時間以上滞留させてはならないという決まりに従って、
エムデンはサバンを出港してスマトラ島の西を南下し、スンダ海峡の西側で塩を運搬して
いたイギリス船を捕捉した。沈められるのを覚悟したイギリス船の船長は、フランス人捕
虜をスマトラ島に運べというミュラー艦長の命令に喜んで服従したそうだ。[ 完 ]