「メイジ(後)」(2018年02月20日)

明治維新期(1868−1914)、大きな変化が日本経済のあらゆる面に起こった。西
洋の経済的軍事的先進性を追いかけるために、カイサル明治は日本の状況を変革させるこ
とを決めた。そのために1868年4月6日に五箇条の御誓文が出され、カイサルは国民
が直面している問題を解決するための議会を設けることを約束した。議会が国民の諸問題
を検討して、封建的な規制をすべて廃止したのである。1873年末になって、長い道程
のはてに信教の自由や基本的人権が承認された。

五箇条の御誓文の第五番目の項目に、カイサル政権の基盤強化を目指して、知識を世界に
求めようという言葉が置かれた。

カイサルはそれを実現させようとして50人の高官を欧米に派遣し、行政・通商・工業・
軍事などを学ばせた。かれらは欧米から帰国すると、外国人顧問の助けを受けながら西洋
の先進性を追いかけるために国家を動かし始めた。その中には鉄道網の建設、道路整備、
封建時代に地主が占有していた土地の制度改革による民衆への再分配、西洋のスタンダー
ドに従った教育制度、モダンな軍隊を作り上げるといったことがらが網羅されている。教
育制度は最初フランスを見倣ったが、後にドイツ型教育制度に変更された。

西洋からさまざまなものを取り入れたあと、明治期の日本は議会政治と新式軍事力を持つ
新興国家として舞台に登場した。1889年には、ヨーロッパのものに似せて作られた初
の憲法を持った。議会が作られた一方で、カイサルは全権力を握る国家元首の座に就き、
陸軍海軍の軍事力、行政と法曹の全権力を掌握した。しかし国家の歯車を動かす実権の糸
は国政を握る元老の手に集まったのである。(シュンスケ スミカワ、1999)

集中的な西洋化の10〜20年が経過した後、保守的なナショナリズム感情が復活してき
た。カイサルへの崇拝の傍ら、儒教や神道の原理に立ち戻ろうとする傾向だ。

明治維新は日本のモダン化の入り口だった。明治維新は日本を封建的社会から切り離して
モダン工業国へと向かわせた。それは経済・社会・政治・軍事の諸セクターに大きな変化
をもたらした。そのすべてが、今の日本の礎石になっているのだ。現代日本という建造物
は、今インドネシアという名前になっているこの国がオランダの支配下にあった150年
前にその建設が着手されていたのである。そして明治維新の74年後に日本もインドネシ
アを支配下に置いた。

今われわれはインドネシア=日本友好60周年を祝っている。日本はわれわれのはるか前
方にいる。日本がどれほど早く駆け続け、それに対して、欠点を率直に認めて外界に対し
てオープンに自らを開いたカイサル明治のような人物をひとりとして持ったことのないわ
れわれが、どれほど早く駆けて日本に追いすがれるか、あるいは少なくとも距離を詰める
ことができるのだろうか。外界に対する疑心暗鬼があれば、あんな自己開放はできないだ
ろう。ましてや、セクト間の疑心暗鬼などはもってのほかと言うしかあるまい。[ 完 ]