「ブタウィ語を知ろう(終)」(2018年02月21日)

ラテン文字による表記ではBataviaと書かれるのが一般的な風潮に対して、1858年に
バタヴィアでラテン文字とアラブ文字の記事を掲載する新聞Pemberita Betawiが発行され
た。ラテン文字表記のBetawiも公民権を得たかのごとく、続々と出現するようになる。1
8世紀から19世紀にかけて発表されたラテン文字による文芸作品にも、BataviaよりBe-
tawiという表記のほうが優勢だったらしい。

1870年にラデン・アリヤ・サストラダルマが発表した「ブタウィの地の状況」という
作品には、「バタヴィアの地元民は一般に日常会話にムラユ語を使っており、自分のこと
を『オランスラム(orang Slam)』あるいは『オランブタウィ(orang Betawi)』と呼んでい
る。ブタウィ人のほとんどは頭を丸坊主にしている。」といった当時のブタウィ人の状況
が描かれている。

ちなみに「スラム(Slam)」という語はイスラムから転訛した言葉で、ブタウィ人の宗教性
の高さを自ら称揚し、ブタウィ人の代名詞として使ったもののようだ。そのためバタヴィ
アの町では、プリブミについて述べる場合に原住民の二大勢力であるブタウィ人とジャワ
人の名前を挙げて、oang Slam dan orang Djawaという表現をするのが一般的になった。

ジャワ人も大半がムスリムなのだが、ブタウィ人がイスラムを自分の専売特許にしたのは
面白い。


ブタウィ史に造詣の深い新聞記者アルウィ・シャハブ氏の記事を読むと、オランダ植民地
時代のさまざまな話に触れることができる。バタヴィアで初めて活動大写真が上映された
のは1900年12月5日のことだった。タナアバンの一軒の家で商業上映が行われた。

入場料金は一等2フローリン、二等1フローリン、三等50センだった。中級米1リッタ
ーを5センで買っているプリブミにとって、それはあまりにも高すぎる。富裕なプリブミ
がいないわけでもなかったろうが、やはり躊躇したにちがいない。

ただしこれまで見たこともない動く画像は、バタヴィアの町に一大センセーションを巻き
起こした。「gambar hidup」と名付けられた活動写真は大評判を取ったが、いかんせん料
金が高すぎる。それで上映者は1901年1月1日から、一等1.25フローリン、二等
75セン、三等50センに値下げした。しかし三等が下がらなければ、一般大衆には依然
として高嶺の花だ。

上映者は1903年3月に再度料金改定を行った。今度は一等の上にlogeというクラスを
設けて4階級にし、ロッジ席2フローリン、一等1フローリン、二等50セン、三等25
センという料金システムになったが、三等には添え書きが付けられた。「Boeat Orang 
Slam dan Djawa Sadja」現代インドネシア語表記に直すと「Buat Orang Slam dan Jawa 
Saja」で、つまり三等はプリブミ専用とされたのである。[ 完 ]