「インドネシア=日本文化交流76年(前)」(2018年02月21日)

ライター: 文化オブザーバー、大統領宮アートコレクションコンサルタント、アグス・
デルマワン・T
ソース: 2018年2月10日付けコンパス紙 "Rekat Budaya Indonesia-Jepang: 76 
Tahun"

1942年3月、日本はインドネシアを占領した。米国が広島と長崎に原爆を投下したの
に関連して、日本は降伏を表明し、1945年8月にインドネシアの支配を終えた。それ
以後、インドネシアと日本の関係は弱まった。

公式にインドネシアと日本の国交が回復されたのは1958年1月20日のことで、日本
政府からインドネシアへの戦争賠償合意がそのシンボルとなった。60年前からインドネ
シアと日本は互いを友邦の位置に置き、親交を深めて行った。その親交が諸方面に渡って
密着の度合いを増したとき、政治の世界ではそれをパートナーと呼ぶ。

パートナー国という関係が育まれただけではない。国民の相互交流も優れた関係が築かれ
た。石井正文駐インドネシア日本大使は「インドネシアと日本の友好協力は様々な分野に
おける両国民間の関係に支えられたものでもある。そのひとつである文化交流は、はるか
昔から推進されてきた。」と述べている。その言葉は、両国民間の文化交流が1958年
に始まったのでなく、もっと昔の1942年に始まっていることを指摘しているからだ。
本論でその話を紹介したいと思う。

< ブシをプイシに変える >
ブンカルノは1942年に(支配者である)日本との文化協力を始めていたのである。そ
の協力は、日本兵の怒鳴り声を唄声に、仕置き棒を振り回す姿を舞踊に、とげとげしいブ
シをプイシ(puisi)に変えたいというブンカルノの希望を核にするものだった。「アジア
のためのアジア文化」という日本の文化政策スローガンから、その協力はスタートした。

あるときブンカルノがバスキ・アブドゥラに命じて日本軍政部指導者である最高指揮官オ
フィス(今の独立宮殿)で執務する今村中将の肖像画を描かせたことで、協力姿勢は深ま
った。その絵が完成すると、ブンカルノはそれをパンジプスタカ(Pandji Poestaka)誌1
942年9月号の表紙に使うよう提案した。ブンカルノが文化面の協力にたいへん熱意を
持っていることに印象付けられた今村中将は、インドネシアにいるすべての日本人アーチ
ストに、インドネシア人アーチストと一致協力して仕事を進めるように命じた。その方針
が実現させたもののひとつが、1942年末に開催されたインドネシア=日本芸術作品展
だ。

解散させたばかりのプートラ(Poetera = POEsat TEnaga RAkyat)に代えて1943年4月
1日に日本が啓民文化指導所を設立した時、協力関係はフォーマルなものになった。この
機関には絵画彫刻・文学・音楽・演劇・映画・舞踊の各部門が設けられた。インドネシア
人は芸術教育の運営がまだできないと考えた日本人は、すべての部門長に日本人アーチス
トを起用しようとし、Saseo Ono, Yashioka, Yamamoto, T.Kohno, Takeda, Soichi Oyaな
ど諸氏の名前が挙げられた。

日本人の名前で埋め尽くされた役員構成を見て、ブンカルノが抗議した。能力のあるイン
ドネシア人アーチストを役員構成の中に加えてほしい、と協力者が要請したのである。こ
うして、スバント・スルヨスバンドリオ(Soebanto Soerjosoebandrio)、エミリア・スナ
サ(Emiria Soenassa)、スジョヨノ(Soedjojono)、アグス・ジャヤ(Agus Djaya)、ヘン・
ガントゥン(Henk Ngantung)たちの名前が登場した。相互に組織を率い合うという協力原
理が、かれらナショナリストの起用を実現させたのである。更にインドネシア側が出版メ
ディアを要請したとき、日本側は「東洋文化(Keboedajaan Timoer)」誌の発行を許可した。
[ 続く ]