「インドネシア=日本文化交流76年(後)」(2018年02月22日)

< 76年間 >
そのインドネシア=日本文化連合はインドネシアの芸術界にすさまじい活力をもたらした。
1942年3月から1944年4月まで、展覧会が14回も開催されている。オランダ植
民地時代には起こったことのないできごとだ。その頂点はカイサル裕仁の誕生日を記念す
る天皇陛下天長節に開かれた展覧会だ。インドネシア人画家60人の作品が展示されたそ
の展覧会には、十日間に1万1千人の観客が訪れた。

舞踊と音楽部門は種々の便宜が供されたため、顕著な発展を見せた。啓民文化指導所のそ
の部門は児童歌曲作曲家のイブスッ(Ibu Sud)に統率された。日本政府は他の大勢の音楽
家にもチャンスを与えた。アミール・パサリブ(Amir Pasaribu)に対して、オランダ人音
楽家ヨス・クレーバー(Jos Cleber)が設立したコスモポリタンオーケストラの後継として、
ジャカルタのRRIラジオ局にオーケストラを編成させたこともそのひとつだ。

一方、トニール(tonil)とワヤンウォン(wayang wong)で構成された演劇部門は、大衆娯楽
としてたくさん上演の機会が与えられた。中でもワヤンウォンの上演は最大限のチャンス
が与えられた。特にこの時代、ワヤンウォンの衣装はワヤンクリの姿が示すものにどんど
ん近付いて行った。それはスラカルタでマンクヌガラ七世時代の数十年間に試みられた方
向性を更に高めるものだったのである。

この時代、ポスターアートも発展した。というのもポスターは日本側の検閲から免れてい
たからだ。それどころか日本側は、ポスターアーチストにベスト作品を作るよう競わせて、
大いに刺激を与えたのである。そんな状況の中から伝説的ポスターアーチストS・トゥト
ゥル(Toetoer)が出現した。そして1980〜90年代になって、インドネシアの映画フ
ェスティバルの中で最優秀映画ポスター制作者に与えられるトロフィーにその名が残され
た。

文学部門だけを例外にして、日本側はインドネシアの芸術作品を検閲しなかった。どうし
て文学だけが検閲の対象にされたのか、明確な説明がなされたことはない。他の芸術作品
に比べて文芸作品による扇動がより容易に行われ得ることを日本側が確信していたためで
あるとわれわれも想像することができる。「インドネシアは告発する」と題するブンカル
ノのスピーチを印刷メディアが発行したあとで、それがどれほど強力な参照文献となった
かという事実を日本側は知っていたのだ。それがために、日本側は文学者サヌシ・パネ
(Sanusi Pane)を啓民文化指導所本部長の座に据えた。その人選からは、策謀の臭いが芬
々としてくる。敵対的な文芸作品が出てきたら、責任者を引っぱたくのだ!

映画部門でも日本側は協力の手を差し伸べた。その結果、1942年に三本、1943年
三本、1944年は五本の作品が作られた。プルサフィ(日本映画社)の制作で、Rdア
リフィン(Arifien)が監督したブルジュアン(Berdjoeang)はその一作品であり、Mモフタ
ル(Mochtar)、ダリア(Dhalia)、サンバス(Sambas)が主演したこの映画には兵補と日本軍
のプロパガンダが詰め込まれていた。

インドネシアと日本の外交・政治関係が60周年を迎えたいま、インドネシアと日本の文
化協力関係は76年というもっと長い年数を経ているのである。[ 完 ]