「メステルコルネリス(1)」(2018年03月07日) 城壁に囲まれたバタヴィア城市から南におよそ12キロ離れたところにジャティヌガラ (Jatinegara)がある。現在は東ジャカルタ市ジャティヌガラ郡だ。 ヤン・ピーテルスゾーン・クーン(Jan Pieterszoon Coen)が1619年5月30日にジャ ヤカルタを征服する以前から、いやカラパがイスラム勢力に奪取される前から、そこはパ クアンパジャジャラン王国の要衝とされており、住民居留区が形成されていた。カラパに 陸揚げされ、あるいはカラパから積み出される交易物資はチリウン川を通ってボゴールと の間を上り下りしていたようで、ジャティヌガラは船人が立ち寄る土地になっていたのか もしれない。 イスラム勢力がカラパを奪取したあと、カラパはジャヤカルタと名を変えてバンテン王国 領地となり、ジャティヌガラはバンテン王国の王族貴族たちが支配するところとなった。 ジャヤカルタがVOCに征服されたとき、ジャヤカルタの宮廷人や市民らがジャティヌガ ラに落ち延びて行ったのは、そういうつながりがあったからに違いない。 ちなみにジャティヌガラという名称はjatiとnegaraが組み合わされた言葉で、jatiはチー ク樹、negaraは国(元来は町)を意味している。jatiにはもうひとつ「本物・真実・核」 などの意味もあり、その地名のジャティの語義はどちらにもとることができる。 ただしインドネシア語で通常の、後ろから前に修飾する法則から見ると、この順番は反対 になっている。ジャティもヌガラも元々はサンスクリット語源の単語であり、これはサン スクリット語の前から後ろに修飾する法則に従ったものであるにちがいない。多分bumi- puteraと同じ用法ではないかと思われる。 わたしの住んでいた南ジャカルタ市パサルミングにもJatipadangという地名があり、これ も修飾関係が逆になっているのでサンスクリット語方式の可能性があるのだが、ジャティ パダンという地名の由緒はよくわからない。 イスラムマタラム王国のスルタン・アグンによる出兵でクーンが建設したバタヴィアの町 が二度戦火にさらされたあと、バタヴィアの街作りが進展の度合いを強めていた1656 年に、マルク諸島のバンダ島出身者でキリスト教の牧師で宗教教育者でもあるコルネリス ・ファン・スネン(Cornelis van Senen)がジャティヌガラ地区のチリウン川沿いの土地お よそ5平方キロを購入して地主となり、その土地の住民たちの首長となった。 私有地のオーナーはあたかもその土地の領主のような立場に置かれ、領地内ではその土地 が属す王国やより高位の行政が持っている一般法の埒外とされるのが普通であり、その慣 習は長期にわたって続けられた。VOCがジャワ島全域を支配下に置いたあとでも西ジャ ワには多数の私有地が設けられ、VOCの法が末端住民まで届かないケースは数え切れな いほど起こっている。[ 続く ]