「メステルコルネリス(終)」(2018年03月09日)

道路の話はともあれ、かれは私有地住民からもメステル・コルネリスと呼ばれるようにな
り、1661年に没したあともかれが首長として治めていた土地がその名で呼ばれるよう
になった。その後、オランダ統治時代を通して、その地名はメステルコルネリスという名
称が維持され、1942年に日本軍政が開始されてから敵性語を廃止させるために地名が
ジャティヌガラに変更された。

しかしごく最近までも、地元の年寄りたちはジャティヌガラよりもメステルという名称を
好んで用いていたし、今でもアンコッに乗るとメステルという停留所名を耳にすることが
できる。


バタヴィアが城壁の外へ拡大して都市域を広げても、メステルコルネリスは自治都市(へ
メンテgemeente)としての扱いが継続され、19世紀にはブカシ・チカラン・マトラマン
・クバヨランを含むジャティヌガラ郡の郡長所在地となり、1936年にやっとバタヴィ
ア市行政の中に編入された。

その郡長役場だった東ブカシラヤ通り76番地にある壮大な建物は最初、領主たるメステ
ル・コルネリス氏の壮麗な住居があった場所だ。ところがラフルズのジャワ島進攻作戦に
備えて、ラフルズを迎え撃つべく赴任してきたダンデルス総督がそこをモダンなヨーロッ
パ風建物に建替えさせた。

1811年のジャティヌガラ会戦のさいにフランス〜オランダ連合軍の司令部がそこに置
かれたのを皮切りにして、その後は郡長の官舎兼役場として使われ、反オランダ独立闘争
期には共和国派ゲリラが本部にしていたそうだ。独立後は陸軍第0505軍管区司令部が
置かれていたが、司令部が移転してからは残骸を?さらすだけになっていた。


メステルは18世紀に軍事都市とされ、1734年にはチリウン川脇にメステルコルネリ
ス要塞が建設された。今のJl. Bukit Duri Utara通りの橋北詰の場所がそれ。兵学校や教
練施設も作られれ、ダンデルスはそこを防衛線と定めて英軍進攻に対する作戦を練った。
軍関係者はここに娯楽施設を用意したため、バタヴィアからナイトライフを楽しみに来る
者が増えた。

1811年の会戦で英軍がフランス〜オランダ連合軍を敗ったことで、ジャワ島はイギリ
スの統治下に置かれた。そのときの状況は「ニャイダシマ」

http://indojoho.ciao.jp/archives/library010.html

がご参照いただけるにちがいない。

1820年に統治権がイギリスからオランダに戻されたとき、メステル・コルネリス要塞
は刑務所に替えられた。その刑務所も1990年に廃止されている。


メステル・コルネリスにも中華街がある。1740年の華人大虐殺事件のあと、グロドッ
に住んでいた華人たちがバタヴィアとは異なる行政区域に期待したのか、このジャティヌ
ガラ地区に移り住んできた。

ジャティヌガラのパサルラマ(Pasar Lama)周辺には、2百年を超えて生き残っている華人
住宅や中国寺院福?正神(klenteng Hok Tek Ceng Sin)などの歴史遺産を見ることもでき
るのである。[ 完 ]