「歴史を歪める政府高官」(2018年03月12日)

2017年11月7日付けコンパス紙への投書"Sejarah dan Pahlawan Bangsa"から
拝啓、編集部殿。故クリス・ビアントロさんが司会するTVRIの番組「クイズスカハテ
ィ」の回答者に出演したときのことを、まだ新鮮に覚えています。

あのときの質問は偉大な民族の足跡、つまり民族史に関することがらで、わたしには難し
いものでした。なぜなら、わが国の長い歴史ですら、民族英雄だけでもたくさんのひとが
いて、全国に散らばっているのですから。

ここ三年間、わたしはバンドン、メダン、ヨグヤ、パスルアン、スラバヤ、マカッサルの
諸都市を巡りました。いずこも大通りは民族英雄の名前が付けられています。ディポヌゴ
ロ、MHタムリン、イマム・ボンジョル、ハサヌディン、スディルマン、ストモなどなど。
独立宣言の発せられた場所、首都ジャカルタでは、大通りには建国の父たちや各地方の民
族英雄の名前が付けられています。年若い都民のひとりだったころ、わたしはメンテンの
スタン・シャッリル通りを通りました。かれはかつての首相で、独立前にモッ・ハッタと
共にボーフェンディグルに流刑されています。

スタン・シャッリル通りの隣に西スマトラ出身の民族英雄の名のついたモッ・ヤミン通り
があります。かれは作家・詩人・政治家で、全国各地の青年を集めて開催された「青年の
誓い」の企画者でした。

メンテンにはディポヌゴロ通りもあります。かれはオランダによる民族支配に激しく抵抗
し、捕らえられてマカッサルへ流刑され、かの地で没しました。中央ジャカルタ市域内に
は、1942年にオランダ政庁に捕らえられたブタウィ人MHタムリンの名を冠するタム
リン通りがあり、また西スマトラ出身で1820〜1830年にパドリ戦争を率いたイマ
ム・ボンジョルの名を受け継いだ通りもあります。かれはオランダ側に捕らえられて、ア
ンボンからマナドへと流刑地が移されました。テウク・ウマル、テウク・チ・ディティロ、
チュッ・ムティアなど、出身地の容易に推測される名前が付けられた通りもあります。

だから、アニエス・バスウェダン都知事の「ジャカルタこそが植民地支配をもっとも強く
蒙った土地であり、他の町はオランダ人を身近に見たことすらない」という発言からは、
氏の民族史理解が不適切であるように思えてなりません。ましてやかれは、オランダ人が
インドネシア民族を分裂させるために用いた「プリブミ」という言葉を使いました。「プ
リブミ」「ノンプリブミ」という言葉は1998年大統領指令第26号で、特に政策決定
者に対して使用が禁止されているはずです。

わたしは一介の市民として、青年層と社会全般に呼びかけます。「簡単に扇動に乗せられ
てはいけません。」この偉大なる民族の歴史を忘れないために、一緒に学ぼうではありま
せんか。[ 北ジャカルタ市在住、アリフィン・パサリブ ]