「マトラマン(2)」(2018年03月13日) このマトラマン郡はメステルコルネリスが繁華な街になったあとも、相変わらずメステル にとっての郊外のようなポジションを占めていた。1870年代になってもマトラマン通 りの両側はヤシやバナナの木に占領され、ちらほらと竹づくりの民家があった程度で、し かし道路脇には灯油ランプの街灯がしっかりと設けられて、バイテンゾルフやチアンジュ ル一円とバタヴィアを往復するひとびとに便宜を与えていた。 1811年にヘルマン・ウィレム・ダンデルス(Herman Willem Daendels)総督がヨーロッ パに呼び戻されてほどなく、インドのイギリス東インド会社がジャワ島進攻作戦を開始し た。総兵力1万2千人近い大軍団は1千9百隻という大軍船団に分乗してマラッカを経由 したあと、風向きの関係でカリマンタンを迂回し、東方からバタヴィアに接近した。2カ 月間の船旅だったそうだ。イギリス軍は北ジャカルタ市チリンチン(Cilincing)に上陸し、 8月8日に既に城壁が撤去されているバタヴィア城市に入った。 オランダ人はもっと以前からタナアバン〜ガンビル〜クマヨラン〜スネンなど、バタヴィ ア城市の南方に開かれた地域へ生活領域を移しはじめており、ウエルテフレーデン(Welte- vreden)とかれらが呼んだその地域が政治経済センターとしての形を整えつつあった。 だからフランス〜オランダ連合軍の対イギリス軍迎撃作戦は、モナス地区を前線としてウ エルテフレーデンに防衛線を敷き、そこが破られた場合に備えてメステルコルネリスに主 力軍を配置するという形が採られたようだ。 おかげでイギリス軍はもぬけの殻のバタヴィア城市で手足を伸ばし、総司令官のミントー 卿と軍最高指揮官ラフルズはバタヴィア市庁舎(今の歴史博物館)に司令部を置いて宿舎 とした。 8月10日にイギリス軍は戦闘行動を開始し、ガレスピー大佐率いる騎兵1千名とセポイ 歩兵45名がまず先遣部隊としてウエルテフレーデンに攻め込んだ。後を追って現在のガ ジャマダ(Gajah Mada)通りハヤムルッ(Hayam Wuruk)通りをイギリスの大軍勢がモナス一 帯に向かって押し寄せる。 攻防戦は2時間ほどで結果が出た。メステルコルネリスに向かって撤退するフランス〜オ ランダ連合軍を追撃するイギリス軍部隊は、幹線道路沿いに設けられたオランダ側前哨基 地に阻まれて追撃の足が停滞する。 一方、バンテン広場〜モナス広場〜スネン地区の残兵を掃討したイギリス側は、司令部を ウエルテフレーデンに移して、まだ新しい施設を利用し始めた。ダンデルスが総督庁を置 くつもりで建てさせていた未完成のホワイトハウス(バンテン広場の現大蔵省建物)がイ ギリス側の総司令部となった。[ 続く ]