「サレンバ(2)」(2018年03月16日)

1949年にオランダがインドネシアの主権と独立を承認したあと、インドネシア共和国
陸軍第312(別名黒サソリ)歩兵大隊が司令部をそこに置き、そのあと陸軍病院局が使
うという歴史が刻まれている場所だ。


少し北に上ってディポヌゴロ通りが左から流れ込んでくる交差点の北側に、インドネシア
大学サレンバキャンパスがある。インドネシア大学の歴史を語る時に、オランダ植民地政
庁が行った原住民医師養成政策を忘れることはできない。

折に触れて各地で発生する天然痘、チフス、コレラなどの大流行で原住民がバタバタと死
んでいくのに手を焼いた植民地政庁は、原住民医師を養成することをその軽減対策のひと
つに置いて1849年から活動を開始した。この学校は1819年に植民地政庁が三カ所
に設けた軍病院のひとつウエルテフレーデン軍大病院の付属施設として1851年1月に
ジャワ医師学校(Dokter-Djawa School)という名称で公式開校した。

その後ジャワ医師学校は1898年に規模が拡大されて、東インド医師養成学校(School 
tot Opleiding van Indische Artsen 略称STOVIA)としてウエルテフレーデン軍大
病院のすぐ南側の建物でインドネシア人医師を養成し始めた。その建物が現在の国民決起
博物館(Museum Kebangkitan Nasional)であり、ウエルテフレーデン軍大病院が現在のガ
トッスブロト陸軍中央病院だ。

植民地政庁は高等教育の拡大方針をスタートさせ、1920年バンドンに工科上級学校
(Technische Hoogeschool te Bandoeng)、バタヴィアには1924年に法科上級学校(Re-
cht Hoogeschool)と1940年に文科人文学部(Faculteit der Letteren en Wijsbegeer-
te)、1941年にボゴールに農学部(Faculteit van Landbouwweteschap)を開設し、一方
医師養成は中等レベルから開始する形に制度改革が行われて医学教育体系が別途構築され、
STOVIAは1927年に廃止された。そのときサレンバに開かれた医科上級学校が現
在のインドネシア大学医学部の前身だ。


インドネシア共和国独立宣言後、既に数カ所に開かれてあった高等教育施設をひとつの大
学体系にまとめて1946年に緊急大学(Nood-universiteit)が設けられ、1947年に
インドネシア大学(Universiteit van Indonesie)と改称された。

東インド植民地に復帰してきたNICA(蘭領東インド文民政府)に首都圏が占領された
ため、ジャカルタの共和国政府はヨグヤカルタに移り、インドネシア大学もヨグヤで活動
を継続した。1949年の独立と主権の承認で共和国政府がジャカルタに復帰してから、
インドネシア大学は医科・法科・文科・哲学科がジャカルタ、工科がバンドン、農科がボ
ゴール、歯科医学がスラバヤ、経済学がマカッサルという壮大なスケールで稼働し始めた
ものの、1954〜1963年の間に各地の学部は独自に大学を形成してインドネシア大
学から離れて行き、ジャカルタのインドネシア大学はサレンバでひとつの大学となった。
[ 続く ]