「サレンバ(3)」(2018年04月02日)

その後キャンパスがサレンバとプガンサアンティムール(Pegangsaan Timur)、ラワマグン
(Rawamangun)の三カ所に増えたあと、1987年にデポッ市に320Haもの広大な地所
を得て新キャンパスが作られ、当初はすべてがそこへ移転するような計画になっていたが、
医学部と歯科医学部がサレンバに残る形で今日に至っている。


インドネシア大学キャンパスを通り越え、パサルクナリを過ぎて、さらにどんどんサレン
バラヤ通りを北上すると、左からラデンサレ通りが合流してくる。ラデンサレ通りに曲が
って6百メートルほど進むとチキニ病院がある。このチキニ病院の建物はかつてインドネ
シアの偉大なる画家としてヨーロッパで英名を馳せたラデン・サレの豪邸だった。

ラデン・サレ・シャリフ・ブスタマン(Raden Saleh Sjarif Boestaman)はラデンの称号が
示す通り、ジャワ貴族の家系に生まれた。父はアラブ系ジャワ人、母はジャワ人で、中部
ジャワのスマランで生まれて10歳までそこで過ごしたあと、伯父のスマラン県令が植民
地政庁上位者のオランダ人にその甥の育成をゆだねた。かれの生年は諸説があって判然と
しないが、今は1807年と1811年の二説が有力になっている。

かれはバタヴィアでオランダ人社会に入って暮らすようになる。オランダ人学校でかれは
既に絵画の天分を示すようになった。青年になったラデン・サレの才能に、当時植民地政
庁農業芸術科学局長の職にあったプロイセン出身のカスパー・ギオーグ・カール・レイン
ワルツ(Caspar Georg Karl Reinwardt)教授が目を止めて、かれを自分の部署で働かせる
ようにした。そのレインワルツ教授こそ、ボゴール植物園の開設者だ。そしてラデン・サ
レも教授の下で自然科学の薫陶を受け、その時代に東インドの人間としては稀な科学知識
を持つようになる。

たまたまオランダ本国政府が植民地省に飾るための絵画を描かせるために、ベルギー系オ
ランダ人画家AAJパイェン(Payen)をバタヴィアに派遣してきた。パイェンは農業芸術
科学局の預かりとなり、ラデン・サレと知り合うことになる。

ラデン・サレの画才にほれ込んだパイェンは当時ヨーロッパの最先端にあった絵画技術を
ラデン・サレに教え込んだ。そしてジャワ島の風景画を描くために地方を巡回するときラ
デン・サレを助手として連れて行き、各地方の種族のスケッチをラデン・サレに描かせて
いる。

パイェンはラデン・サレを画家に育てようと考えて、植民地政庁トップにその提案を示し
た。時に第38代総督だったファン・デル・カペレン(G.A.G.Ph. van der Capellen)はラ
デン・サレの作品を示されて、その案にうなずいたそうだ。

1829年、ラデン・サレはパサルイカンのバタヴィア港からオランダに向かう船に乗っ
た。かれの旅費はカペレン総督が負担した。総督はラデン・サレに、その同じ船で帰国す
るオランダ政府の会計監査官に対してジャワの生活習慣やジャワ語とムラユ語を教授する
よう、仕事を与えた。まだニ十歳前後の青年だったかれの能力がいかに高く評価されてい
たかを示すエピソードではあるまいか。[ 続く ]