「サレンバ(4)」(2018年04月03日)

それから5年間、かれは当時オランダ国内で人気の高い画家コルネリス・クルーゼマンと
アンドレアス・シェルフホウツに師事した。クルーゼマンはオランダ王国宮廷画家でもあ
った。ラデン・サレの作品を集めた展覧会がハーグとアムステルダムで開かれ、東インド
植民地の人間の中に世界最先端の絵画手法を身に着けて素晴らしい作品を描ける者がいる
という事実が、ヨーロッパにセンセーションを巻き起こした。

オランダ本国政府が費用を負担していた留学期間が終わると、ラデン・サレは科学・測量
学・工学をもっと深めたいとして期限延長を願い出た。植民地省・オランダ国王ウィレム
一世・その他の関係者が協議した結果、オランダ滞在期間の延長は承認されたが、政府が
支給する留学費用は打ち切られた。

国王ウィレム二世のとき、ラデン・サレはドイツ留学を勧められ、ドイツ王国の賓客とな
って5年間滞在し、1844年にオランダに戻ってからはオランダ王国の宮廷画家として
働いた。フランスのマエストロ、フェルディナン・ヴィクトル・ウジェーヌ・ドラクロワ
と親交を持ったのもその時代だ。そのころからドラクロワの影響を受けつつ、かれの情熱
は動物の躍動性をキャンバスにとらえることに向かい始めていたらしい。当然、そのダイ
ナミズムを支えるドラマチックな背景が画像の中に封じ込められることになる。

フランスで社交界の一員となり、ボードレールやアレクサンドル・デュマら気鋭の文学者
と交わり、リストやワグナーのコンサートを聴き、ヴィクトリア女王の客となってバッキ
ンガム宮殿を訪れたこともあるらしい。


ラデン・サレの作品に砂漠を背景にした人間と野獣の構想がよく登場していることから、
かれはアルジェリアを何度も訪問したパリの友人画家オラス・ヴェルネに同行してアルジ
ェリアに行ったことがあるのではないかという説がこれまで語られてきたが、どうやらそ
れは推測でしかなく、アルジェリアへは行ったことがないという説が今は有力になってい
る。ラデン・サレは砂漠のイメージをオラス・ヴェルネの作品から吸収したようだ。

ラデン・サレはオーストリアとイタリアをも訪れて各地の画壇と交わり、宮廷を含む上流
層社交界で評判を集めた。


20年間滞在したヨーロッパを去るときがついにやってきた。1851年にオランダから
帰国の途に就いたラデン・サレは、1852年にバタヴィアに戻った。

バタヴィアでかれは絵画補修管理者として東インド植民地政庁に奉職する傍ら、風景画や
ジャワ宮廷のひとびとの肖像画を描いた。かれはジャワ島生活に落胆していたようだ。

「ここでは誰もが砂糖とコーヒーの話しかしない。」という文章をかれが書いた手紙の中
に見出すことができる。ヨーロッパの社交界が開くサロンの教養あふれるセンスをバタヴ
ィアで求めるのは不可能事だったにちがいない。

ラデン・サレは1865年に中部ジャワのスントロで化石発掘調査を行っている。同じよ
うなことはいくつかの場所で行ったようだ。またブカシのカバンテナン村住民から銅板に
彫られた碑文を買い上げて、国立博物館に寄贈している。このバンテン碑文(prasasti 
Banten)と呼ばれる遺物は、ラデン・サレが牛小屋で見つけて無知な農民から歴史遺産を
救ったという話になって流布しているのだが、どんなドラマのシーンをわれわれは想像す
ればよいのだろうか?[ 続く ]