「サレンバ(6)」(2018年04月05日)

ラデン・サレの生涯に話を戻そう。

ヨーロッパからバタヴィアに戻ってほどなく、ラデン・サレはオランダ系の寡婦ウィンク
ルハーヘン夫人を妻に迎えた。当時のかれの生き方に従えば、それはほかに余地のない選
択だったにちがいない。しかしウィンクルハーヘン夫人がその豪邸に住んだのは十年間だ
った。

1867年、かれはヨグヤカルタ王家の血筋を引くラデン・アユ・ダヌディルジャを妻に
してバタヴィアを去り、ボゴールに移った。サラッ山の見晴らしがとてもよい一軒の家を
ボゴール植物園の近くに借りて住んだ。かれのヨーロッパ風社交生活をかれはチキニの豪
邸と一緒に打ち捨てたにちがいない。


それからのかれは妻を連れてオランダ〜フランス〜ドイツ〜イタリアと巡るヨーロッパ周
遊旅行を行った。ところが、パリに滞在中妻が病気になり、ボゴールへ戻らざるを得なく
なってしまった。

1880年4月23日、ラデン・サレは急病に陥った。それについてかれは、盗みをはた
らいた雇人のひとりを叱責したため、その者に毒を盛られた、と自分の口から語ったそう
だ。しかし医師の検査によれば、心臓の近くに血栓ができて、それが命取りになったとい
う診断になっている。

4月25日にかれはボゴールのエンパン村で埋葬された。かれの葬儀には、オランダ人官
吏、近隣一円の地主、一般庶民から学校生徒らが大勢集まって、たいへんな賑わいだった
そうだ。新聞はそのできごとを、2千人が集まってかれの死を悼んだと報じている。そし
てかれの妻はその年の7月31日に、夫の後を追って世を去った。夫妻は同じ墓所に葬ら
れた。


既述したバンテン碑文がパジャジャラン王国の歴史を解明するのに有益なものだったこと
から、かれがジャワ王族の娘を妻に迎えてバタヴィアを去り、ボゴールに移り住んだこと
に因縁付けようとする傾向が生じているように感じられる。

ラデン・サレにとってボゴールは、レインワルツ教授が植物園の建設と初期運営に当たっ
ていた時代に親しんだ土地であり、まったく未知の場所でなかったことから、かれが明晰
な意志を持ってボゴールに引っ越したことは間違いあるまい。

しかし死期が迫ったころ、自分の墓をボンドガン(Bondongan)に設けるよう遺言したこと
が、きっと歴史家たちの心の琴線に触れたにちがいない。ボンドガンはパジャジャラン王
宮の地所の一角に当たっているのである。

ラデン・サレの墓所は、1953年に当時のスカルノ大統領が墓参に訪れ、立派なものに
改装するよう指示した。イスティクラルモスクを設計した当代一級の建築家Fシラバンが
改装をデザインし、新装なった墓所は誰でも墓参に訪れられるよう、一般公開されている。
墓所はボゴール市南ボゴール郡エンパン町ラデンサレ路地にある。[ 続く ]