「クラマッ(2)」(2018年04月10日) ウエルテフレーデンの東側にある現在の国民決起博物館(Museum Kebangkitan Nasional) で営まれている東インド医師養成学校(School tot Opleiding van Indische Artsen 略称 STOVIA)、1924年以来、現在の西ムルデカ通りの西にある国防省の建物で実施 されていた法科上級学校(Recht Hoogeschool)などに東インドの各地から入学してきた学 生たちが、寮生活の拘束を嫌って民間の寄宿舎を借りる需要が増加した。シー・コンリオ ンはそれを商機と見たにちがいない。 STOVIAの学生だったサティマン・ウィルヨサンジョヨ(Satiman Wirjosandjojo)が191 5年に興した民族運動活動団体トリコロダルモ(Tri Koro Dharmo)は発展して1918年 にヨンヤファ(Jong Java)と改称した。そのヨンヤファが組織活動の本拠地として面積4 60平米の、クラマッラヤ通り106番地にある建物を借り上げた。それまで本部にされ ていたクウィタンの借家は狭いためにさまざまな不都合をきたしていたのだ。そして各地 から集まって来た学生たちがそこに住み込んだ。学生たちはその建物をラゲンシスウォ (Langen Siswo = kesenangan siswa)と呼んだ。 1926年9月、この建物に集う学生たちが第一回青年会議のあとインドネシア学生会 (Perhimpunan Pelajar-pelajar Indonesia)を発足させ、スカルノや他の有力活動家たち をそこに招いて頻繁に討議を行うようになる。 一方で、学生たちは芸術活動やスポーツ活動を盛んにし、決して政治活動偏重にはなって いなかった。概してみんな、本分である学業も真面目に行っていたようで、学生運動ある いは政治運動に関わる者は学業を投げ出してしまうようなイメージは、どうやらかれらの ものでなかったようだ。 学生会は雑誌インドネシアラヤの発行を開始し、そのうちに学生活動家たちはそこをイン ドネシスクリュブハイス(Indonesische Clubhuis)と呼ぶようになり、建物の表にその名 の看板を掲げることまでした。 元々植民地政庁は学生たちの民族活動を危険思想として介入し続けてきており、植民地下 にあった諸種族を一致団結させるためのインドネシア民族という観念、更には外来語でし かないインドネシアという言葉が社会化することを極度に嫌って弾圧し続けていた。 青年会議開催にも当然のように官憲が参加者に混じって目を光らせていたことは言うまで もない。 建物オーナーのシー・コンリオンは民族活動学生たちに理解を示し、青年会議でも会場設 営に協力した上、コングレスにも出席したようだ。 1934年に学生たちはその建物の賃貸をやめてクラマッラヤ通り156番地に移った。 そこには現在BNI銀行クラマッラヤ支店が建っている。 クラマッラヤ通り106番地の建物は1937〜1951年に別の華人が借家にし、その あとそこをまた別の華人が花屋とホテルにした。そして最終的に1973年5月20日、 都庁がそこを青年の誓い博物館に変えたというのが、その建物の歴史だ。[ 続く ]