「クラマッ(3)」(2018年04月11日)

クラマッ町の北端はクラマッブンドゥル通り(Jl Kramat Bunder)で、その北側にスネン市
場がある。スネン市場の西南角には、東からクラマッブンドゥル通り、南からクラマッラ
ヤ通り、西からクウィタン通りとプラパタン通り(Jl Prapatan)、北からはスネンラヤ通
りとパサルスネン通りが集まってくる巨大な交差点がある。

クラマッブンドゥルと呼ばれたのはそこのエリアで、昔はそこがクラマッブンドゥル交差
点(Persimpangan Kramat Bunder)と呼ばれていたが、今はパサルスネン交差点(Persim-
pangan Pasar Senen)という呼び名が優勢になっており、クラマッブンドゥルという言葉
を耳にする機会は大幅に減少した。

ブンドゥルという言葉はムラユ語源のbundarの最終母音がムラユ語の慣習に従って弱母音
化したものと考えられ、弱母音化した響きを書きとめるために最終母音の/a/が弱母音/e/
に置き換えられてbunderと綴られている。

この種の音韻変化を標準インドネシア語と認めないインドネシア国語学界は、同じ慣行で
作られたsenang→senengやasam→asemなどの変化形を国語大辞典(KBBI)に掲載しな
い方針を執っているため、外国人インドネシア語学習者の難関は増加の一途だ。


クラマッラヤ通りとパサルスネン通りの直線コースが1678年に作られた大通りであり、
交差点から左に傾斜してバンテン広場(Lapangan Banteng)〜グドゥンクスニアン(Gedung 
Kesenian)〜パサルバル(Pasar Baru)方面に向かうスネンラヤ通りは、オランダ人がバタ
ヴィア城市を捨ててウエルテフレーデンに新しいバタヴィアを移した時期のものであるの
は、疑いあるまい。プラパタン通りとクウィタン通りは更にメンテン地区に建設された新
高級住宅地と結び付けて考えることができる。

ちなみに、プラパタン通りは1735年に作られ、最初パラパタン通り(Jl Parapatan)と
書かれたそうだ。ところが日本軍政期にプラパタン通り(Jl Perapatan)と変えられ、19
56年ごろに現在の綴りJl Prapatanになった。

1920年代ごろまでクラマッブンドゥルには川が流れており、クラマッラヤ通りとパサ
ルスネン通りの直線コースはそこにかけられた橋を通過していた。クラマッ橋(Jembatan 
Kramat)と呼ばれたその橋が川と一緒に姿を消したのは、1920〜1930年代に行わ
れたスネン市場の大拡張工事のせいだった。川は多分プラパタン通りとクウィタン通りに
沿って西から東に流れ、更に東のブグル(Bungur)町にあるカリバル(Kalibaru)と呼ばれた
運河につながっていたのではあるまいか。クウィタン通りにあるグヌンアグン書店の表の、
緑地帯と呼ぶほうが適切に思われる公園(Taman Gunung Agung)が、クラマッ橋の下を流れ
ていた川だったようだ。要は、川の両岸にあった道路がプラパタン通りとクウィタン通り
であり、真ん中の川が緑地帯に変わったことから、現在のあの広壮な通りと化したという
ことなのだろう。[ 続く ]