「クラマッ(終)」(2018年04月13日)

1945年10月に始まったAFNEI進駐軍とインドネシア人との間の戦闘で、クラマ
ッラヤ通りからクウィタン町にかけての一帯が全ジャカルタでもっとも激しい戦場となっ
た。そこでの戦闘は何度も繰り返されている。
当時の状況は「スラバヤの戦闘」http://indojoho.ciao.jp/koreg/hbatosur.html
内の「2.ジャカルタ動乱」をご参照ください。

その一帯がもっともすさまじい戦場になったのは、そこが双方の最前線に当たっていたか
らだ。オランダ人がバタヴィア城市からウエルテフレーデンに町を移したとき、新しい町
の北部西部に政治と経済のセンターを置き、軍事関係は南東部に配置された。

バンテン広場の南側、今のホテルボロブドゥルのある場所には、1825〜1830年に
起こったディポヌゴロの叛乱のために、オランダ王国東インド植民地軍(Koninklijke 
Nederlands Indisch Leger (KNIL) )が第10大隊(Batalion X)の司令部を置いた。その
南には1819年に設けられたウエルテフレーデン軍大病院があり、その病院が現在のガ
トッスブロト陸軍中央病院になっている。

オランダ東インド植民地軍(KNIL)というのは陸軍のみであり、そして兵員はオラン
ダ人以外のヨーロッパ人傭兵とインドネシア人プリブミから成っていた。プリブミのメイ
ンを占めたのは、アンボン・ティモール・ミナハサなど宗教を同じくする種族だったよう
だ。


こうして第10大隊の兵員たちはプラパタン通りの北側に住むようになる。クイニ通り
(Jl Kwini)のあるその地区の中でアンボン人が集まって住んでいるエリアはカンプンアン
ボンと呼ばれていた。わたしもそこの中を何度も車を運転して通っている。

ジャカルタにはカンプンという言葉のつく地名が少なくない。カンプンアンボンをはじめ
として、カンプンブギス、カンプンバリ、カンプンバンダン、カンプンマカッサル、カン
プンムラユなどがそうだ。カンプンというのは元々部落・集落を意味し、ある地方からや
ってきた種族がまとまって居住したことから、そんな名称が与えられた。

たとえば地名として公認されているカンプンアンボンはジャカルタに二カ所ある。ひとつ
は東ジャカルタ市プロマス地区で、もうひとつは西ジャカルタ市チュンカレン郡カプッ地
区だ。

しかし元来の「一種族の部落」という意味で行政区画名称とは無関係に、地元民がそうい
う名称で呼んでいる場所がいくらでも存在している。中央ジャカルタ市スネン郡スネン町
のクイニ通り地区の一角もその例のひとつであり、不都合なことは何もない。


1945年9月にインドネシアに戻って来たNICA(東インド植民地文民政府)とKN
ILはAFNEI軍を巧みに操作して、独立を宣言したプリブミへの再支配の動きを開始
する。

KNILのジャカルタにおける中心地区が軍事行動の本拠地にされるのは当然の帰結であ
り、プラパタン通り北側がその位置を占めることになった。その矢面に立たされたのがク
ウィタン町であり、次いでマトラマン町だったということなのである。こうして歴史の悲
劇がかれらを襲うことになったのだ。[ 完 ]