「スネン(2)」(2018年04月17日)

ちなみにタナアバン市場は土曜日が市日だった。VOCは最初、市場が設けられると市日
を週一回としてそれぞれに曜日を割り当てた。コジャ(Koja)市場は火曜日、パサルボ(Pa-
sar Rebo)にある今のクラマッジャティ(Kramatjati)市場が地名通りの水曜日、メステル
にあるジャティヌガラ市場が木曜日、金曜日はクレンデル(Klender)やチマンギス(Cimang-
gis)あるいはルバッブルス(Lebakbulus)、そして日曜日は動物園のあるラグナンからほど
近いパサルミング(Pasar Minggu)だ。

市日が地名になってしまったものもあれば、そうならなかったものもある。地名になった
ものを一週間分探し出して横並びさせても、時代の差は見えてこないかもしれない。VO
Cは市日を制限する方針で民間経済界に当たったためにそのような現象が生まれたのだが、
破産したVOCの後を受けて東インドの経営に着手したオランダ政府は、市日を全廃して
すべての市場に常設を許可した。


スネン市場が設けられた土地は最初、コルネリス・シャステレイン(Cornelis Chastelein)
が地主だったようだ。

コルネリス・シャステレインは1657年8月にアムステルダムに生まれ、叔母の夫がV
OC高官としてバタヴィアに赴任するとき、17歳の若さで同行してきた。バタヴィアで
の奉職の第一歩はVOCの帳簿係だった。その後赫赫たる成績を示して、1691年には
上級商務員になっている。

しかし1691年から1704年までVOC第16代バタヴィア総督の座に就いたウイレ
ム・ファン・オウトホールン(Willem Van Outhroon)とまったくそりが合わなかったこと
から、かれは1692年にVOCを退職し、バタヴィア周辺のあちこちに土地を購入して
商品作物生産に力を注ぐようになった。

かれが歳月をかけて購入したのは、1693年に今のガンビル(Gambir)からスネン(Senen)
にかけての、後にウエルテフレーデンと名付けられた地区の一角、1696年にはデポッ
(Depok)、そしてチリウン川西部のスレンセン、マンパン、カランアニェルなど、更に1
712年にはチリウン川東部の土地も華人地主から買い取っている。

かれは奴隷を百数十人購入し、奴隷の身分から解放した上、自由人として自分の所有地に
作った農園で働かせた。その一環として、バリ島に船を送って奴隷購入を何回か行わせて
いる。最終的にかれはデポッを本拠地に定めてその地の経営に力を注いだが、1714年
にデポッの自邸で生涯を閉じた。

ジャカルタの南に隣接しているデポッ市がコルネリス・シャステレインの開いた土地であ
るということは定説になっている。デポッのケースのように、西洋人がコロニーを作って
原住民と共同生活を送る場合、子孫が何代も経過するうちに混血者が大部分を占めるよう
になるのはよくある現象だ。オランダ人の遺伝子が混じったかれらの間に、西洋人の姿か
たちを明白に示す者が出るのも、当然の現象である。そのような者に対してオランダ語を
知らない「Belanda Depok」という蔑辞が与えられることは避けようもなく起こった。特
にオランダ人に対する憎しみがかきたてられた独立闘争期には、姿かたちなど関係なくデ
ポッ住民ということだけで「ブランダデポッ」と蔑まれ、更には危害が加えられることも
頻発した。

スネンに話を戻そう。[ 続く ]