「KAMUと呼ばれるのは侮蔑?(2)」(2018年04月17日)

本来インドネシア社会が持っていた人間関係のあり方は、長幼の序を踏まえたファミリー
社会の構造を基盤に据えているため、上位者に対しては父なら父、母なら母、祖父母おじ
おば兄ちゃん姉ちゃんといった言葉を二人称に使う慣習が確立されてしまい、血縁ファミ
リー外のひとに対しても拡大ファミリー構造が適用されて社会化してしまった。その結果、
二人称代名詞は同等あるいは目下の人間に対してもっぱら使われるようになってしまった
のである。

その方式は対話の間中、封建制度下における相互の身分関係を互いが常に意識し合うのに
きわめて効果的であり、二人称の単語に上下関係の色を塗りこめて、状況に応じて使い分
けさせる用法よりもはるかに直接的で、しかも簡便なものだ。


そこで思い出すのは、携帯電話機がインドネシア社会にまだ影も形もない時代、電話をか
けてきたインドネシア人が開口一番「Ini siapa? (あなたは誰?)」と尋ねてくるのに
驚いた日本人がその事実に関連して、「インドネシア人はなんという無礼な民族なのか。
電話をかけた方が自分の名を名乗るのが当たり前なのに。」「インドネシア人は電話のか
け方のエチケットを知らない、愚かな民族だ。」といったコメントがインドネシアよろず
掲示板にあふれたことだ。

インドネシアの基本的社会慣習においては、まず自分と相手の身分関係を知らなければ、
相手に対して使うのに適切な二人称が定まらないのである。同時に、自分が執るべき姿勢
の高低も定まらない。電話機という文明の利器を手にした封建精神がその瞬間、いかに面
妖な不適合を起こしたかということがそこから見えてくるにちがいない。それはインドネ
シアの社会生活における礼節の有無とはまるで無関係なことがらだったのであり、むしろ
礼節規範に従おうとするあまり、まず無礼が先に立ってしまったと言えることかもしれな
い。

ともあれ、携帯電話機が普及するようになってから、「イニシアパ?」現象はまったく目
立たなくなってしまった。なぜなら、携帯電話機の電話番号を複数の人間が共有している
ケースはきわめて稀であるため、電話に出た人間の聞き覚えのある声や口調で、相手が誰
なのかはすぐにわかるはずなのだから。

しかし会社でわたしの近くに座っていたインドネシア人役職者が自宅の家庭電話機に電話
するとき、頻繁に「イニシアパ?」をやっていたのをいまだに記憶している。


さて、「アンダ」の登場は社会生活においてかなりのところまで普及したものの、ファミ
リー構造に由来する二人称用法は依然として根強く残っていて、残念ながらロシハン・ア
ンワル氏が期待したその封建遺制を駆逐するまでに至っていない。[ 続く ]