「グヌンサハリ(1)」(2018年04月23日)

1678年にVOCが建設したバタヴィア城市とメステルコルネリスを結ぶ幹線道路はい
よいよ最北端に向かって歩を速める。パサルスネン通りを越えたら、グヌンサハリラヤ通
り(Jl Gunung Sahari Raya)だ。

道路の東側は中央ジャカルタ市クマヨラン(Kemayoran)郡南グヌンサハリ町で、道路の西
側はやはり中央ジャカルタ市のサワブサール(Sawah Besar)郡パサルバル町になる。サワ
ブサール郡は更にその北側のカルティニ町、そして北に続く南マンガドゥア町、および道
路の東側で南グヌンサハリ町の北側に接している北グヌンサハリ町までをカバーしている。

そこからもっと北側は北ジャカルタ市パドマガン(Pademangan)郡に変わり、西パドマガン
町とアンチョル(Ancol)町がグヌンサハリラヤ通りの北端までこの通りを包んでいる。

グヌンサハリラヤ通り北端は、アンチョル地区と南側を隔てるアンチョル川の南岸を走る
マルタディナタ(R.E. Martadinata)通りに直角で突き当たって終わる。そこから橋を渡っ
てアンチョル川を越えれば、アンチョルドリームパーク(Taman Impian Jaya Ancol)の入
場ゲートは目と鼻の先だ。1678年にその道路が作られたとき、果たして北端はどこだ
ったのだろうか?


いまグヌンサハリラヤ通りから西側へ直角に折れ曲がる道路は、南から見て行くとまず、
ドクトルストモ(Dr. Sutomo)通りがある。これはパサルバル商店街地区からイスティクラ
ルモスクの北をかすめてジュアンダ通りを西進し、ハルモニ交差点でバタヴィア城市から
まっすぐ南下してくるハヤムルッ(Hayam Wuruk)とガジャマダ(Gajah Mada)のふたつの通
りとクロスする。

その北はサマンフディ(KH Samanhudi)通りで、これはパサルバル商店街地区の北縁を区切
り、サワブサール地区の中を西進してハヤムルッとガジャマダのニ路と交差する。

そのもうひとつ北はマンガブサール(Mangga Besar)通りであり、これもまっすぐ西進して
ハヤムルッとガジャマダのニ路に突き当たる。

その北にあるのがパゲランジャヤカルタ(Pangeran Jayakarta)通り(グヌンサハリラヤ通
り近くではドクトルスラッモ(Dr Suratmo)通りと名が変わる)で、この通りだけは国鉄ジ
ャカルタコタ駅の東側から東南に斜め掛けしていて、他の道路と趣を一風異ならせている。

最後が国鉄ジャカルタコタ駅南側をまっすぐ東行してグヌンサハリラヤ通りにぶつかるマ
ンガドゥア(Mangga Dua)通りだ。

グヌンサハリラヤ通り北端とマルタディナタ通りの関係は既述した。


城壁に囲まれたバタヴィア城市から南に向けて発展をはじめたバタヴィアの町は、ウエル
テフレーデンに政治経済センターを移転させ、更にその南部のメンテン地区に新住宅街を
生み出すころまで、グヌンサハリラヤ通りとバタヴィア城市からまっすぐ南下するハヤム
ルッとガジャマダのニ路にはさまれたエリアに開拓の焦点が集まっていた。

方形に切り取られたそのエリアを更に細分する上述の道路は、そこでの住民の活動にとっ
て重要な交通路をなしていたであろう。その時期、グヌンサハリラヤ通りはバタヴィア住
民にとって重要な道路のひとつだったにちがいない。[ 続く ]