「グヌンサハリ(2)」(2018年04月24日)

大正十年5月にバタヴィアを訪れた徳川義親侯爵の手記「じゃがたら紀行」を読むと、昔
の様子がおぼろに浮かんでくる。一部を引用させていただくと;

今、バタヴィアというのはタンジュン・プリオ、バタヴィア、ウエルトフレデン、メース
テル・コルネリスの四つの独立した市の総称です。旧バタヴィアは、朝晩厭になるほど食
わされた馬鈴薯の故郷、いや馬鈴薯の名の故郷という方が適当かもしれない、旧名ジャカ
トラです。・・・・・・・
タンジュン・プリオからウエルトフレデンまで六哩、濁った水が澱んでいる掘割に沿うて
自動車は矢のように走ります。路の傍に山羊がうろうろと遊んでいたり、真白なスワンが
溜り水のようななかに浮かんだりしています。車はやがてウエルトフレデンの町に入りま
した。市街は広くはありませんけれども、さすがに住宅の設計に独特の技兩を有する阿蘭
陀人の計画だけあって、翠光の滴るような緑蔭の市街です。その間に小ぢんまりした白亜
の、周囲の緑によく調和するように彩られた家が点々と建っています。堀は町の中まで貫
いています。この濁った泥水の中で、爪哇の男女がマンデーをしたり更紗の洗濯をしたり
しています。この汚い水の中に入って、ものを洗って清くするという気がしれません。


当時タンジュンプリウッ港とバタヴィアの町を結ぶ道路は、今のマルタディナタ通りしか
なかった。港からまっすぐチャワン(Cawang)目指して南下してくる道路はスカルノ大統領
時代に作られたものだ。

だから侯爵を乗せた自動車はマルタディナタ通りを走ってからグヌンサハリ通り北端で左
折し、運河を右に見ながら南下して行ったにちがいない。そしてパサルバル商店街地区南
縁のストモ通りに右折してイスティクラルモスクに変えられる前のウィルヘルミナパーク
(Wilhelmina Park)を通り過ぎ、車はレイスウエイク(Rijswijk、今のヴェテランveteran
通り)をハルモニー交差点へ向かったように思われる。

もし宿舎がバタヴィア当代随一のホテルデザンド(Hotel Des Indes)であったなら、その
ルートはきっと間違いないところだっただろう。侯爵の乗った車はタンジュンプリウッ港
を出てから堀が道路の右に常に見える道路を走り続けたことになる。


ハヤムルッとガジャマダのニ路にはさまれた運河は1648年にカピテンチナのポア・ビ
ンアム(Phoa Bing Am)が森林原野や湿地の中に掘ったものだった。バタヴィア城市外南縁
の濠に入ってくるチリウン川の屈曲部からまっすぐ南に向けて掘り進み、今のハルモニ交
差点から更に南のマジャパヒッ(Majapahit)通り〜アブドゥルムイス(Abdul Muis)通りを
経てクルクッ(Krukut)川までつなげたとのことだ。

工事の最大の目的は、運河周辺の森林から木を伐り出してバタヴィア城市内の木の需要を
満たすことだったようだ。建物の建設から薪の需要まで、木材は広く必要とされていたに
違いない。[ 続く ]