「グヌンサハリ(3)」(2018年04月25日)

この運河をオランダ人は最初、ビンアム運河(Bingamvaart)と呼んだが、そのうちにその
水流を利用してグロドッ地区にサトウキビ搾りやアラッ酒製造、火薬製造などのための水
車が次々に設けられたことから、1661年にモーレンフリート(Molenvliet)と改名され
た。

運河の東側の川岸道はモーレンフリートオースト(Molenvliet Oost)、西の道はモーレン
フリートウエスト(Molenvliet West)と呼ばれ、それが今ではそれぞれハヤムルッとガジ
ャマダという道路名に変わっている。

もっと後の時代になって、モーレンフリートの水流を強くするために、今のイスティクラ
ルモスクがある地点を流れているチリウン川からまっすぐ西に水を引き、現在のハルモニ
交差点で合流させた。その西に引いた水路が現在ジュアンダ通りとヴェテラン通りの間を
流れる運河である。


イスティクラルモスクの北でチリウン川を分流させたとき、運河はさらに東へも伸ばされ
たようだ。西向きとほぼ同じ距離だけ東に引かれてから北上し、パゲランジャヤカルタ通
りの端に設けられたジャカトラ要塞に向かう途中で北東に向きを変え、農業用地に流れ込
むようにして終わっている。その東向きに引かれた運河が、現在のパサルバル商店街地区
の南縁を流れる運河の位置に酷似している。

いまグヌンサハリラヤ通りの西を流れている運河は、そのパサルバルの南縁の運河と直角
に合流して北上し、通りの端を更に超えてアンチョル地区を縦断し、河口をジャカルタ湾
につなげている。現在のその運河は長年にわたって何度も改修工事が行われたそうだ。も
ともとあったチリウン川が埋め立てられた時期があり、そして再び運河が掘られたという
話になっている。1681年にはNiewerslootという名称がグヌンサハリ運河の名称だっ
たそうだから、メステル・コルネリスに向かう道路が作られてからほとんど間もなく今の
ような運河ができあがったということなのだろうか?それだと長年かけて現在のようにな
ったという表現に矛盾する気がわたしにはするのだが・・・。


このグヌンサハリという名称の由来について調べてみたものの、よくわからない。いくつ
かの説があるのだが、いずれも帯に短くたすきに長すぎる印象だ。

まずはかつてタナニョニャ(Tanah Nyonya)にあった有名な企業N.V. Goenoeng Saharieの
名前に由来しているというもの。

次は昔この通りからグデ・パンラゴ(Gede Pangrango)の峰が一日中よく見えたので seha-
rian → sahari となったというもの。

もうひとつは、1740年10月9日から三日間に渡ってバタヴィアで吹き荒れたVOC
による華人大虐殺の嵐がここにもまた登場するのだが、一日で華人の死骸が山になったの
でgunung sehari → gunung sahari と変化したという説。

もっとおとぼけは、昔そこに本当にサハリ山という山があったのだが、欲深い人間どもが
山を掘り崩して平地に変えたというものもある。するとまたサハリに引っ掛けて、一日で
掘り崩したのだろう、と茶々を入れる者も出現する始末だ。[ 続く ]