「グヌンサハリ(4)」(2018年04月26日)

1745年ごろのオランダ語の記事の中に Goenong Sahari が登場していて、この名称が
決して新しい時代のものでないことをうかがわせてくれる。VOCがバタヴィア城市の中
で支配と富の追求に血道をあげている時代に民間企業が存在しえたとは考えにくいし、華
人大虐殺をもじってプリブミが作り出した言葉をオランダ人が採り上げることも考えにく
い。サハリという言葉はアラブ語で木立の生えている場所や林を意味しているのだから、
その辺りに名前の由来が関わっているのかもしれない。あるいはスンダ語での意味を追っ
てみるのも一案かもしれない。要は、オランダ人がその土地に関わり始めたころ、プリブ
ミがその土地を呼んでいた名称にオランダ人が従ったと見るのが妥当なところではあるま
いか。

ちなみに華人の記録を探してみたところ、1760年の年号のあるものの中に、グヌンサ
リを牛郎沙里と表記しているものが見つかった。牛郎は牧童つまりカウボーイの意味で、
福建式発音はクロンもしくはクヌンだ。沙里は砂の意味で発音はサリとなっている。そし
てアルファベットでGolong Sariという綴りが添えられていた。これもやはりグヌンサリ
という音を漢字に写し取ったものと見て間違いあるまい。現代中国語でグヌンサハリは古
農沙哈利と表記されている。

1760年に牛郎沙里が何の文書に出現したかというと、完劫寺に関わるストーリーの中
だった。完劫寺は中国名 Wan Jie Si、インドネシア名 Vihara Buddhayana とされている
が、寺の梁に掲げられた木板には WANG KIAP SIE と銘されている。Wan Jie si がマン
ダリン式発音で、WANG KIAP SIE は福建式発音に由来しているにちがいない。


グヌンサハリラヤ通りからサマンフディ通りに曲がって橋を越えると、運河の西岸に沿っ
てカルティニラヤ通り(Jl Kartini Raya)がある。その道をおよそ3百メートル足らず北
上すると、西に向かうラウツェ通り(Jl Lautze)に行き当たる。ラウツェとは老子のこと
だ。

ラウツェ通りを2百メートルほど進むと真正面に巨大な邸宅があり、道路はそれを避けて
左側に回り込む。回り込み始めてからほんの目と鼻の先に、朱塗りの門があってVihara 
Buddhayanaと大書されている。中をのぞくと、まったく中国寺院らしからぬ、オランダ風
の大邸宅が目に映る。ここはもともと仏教寺院として建てられたものではなかったのであ
る。

1736年、VOC高官だったフレデリック・ユリアス・コイエット(Frederik Julius 
Coyett)がバタヴィア城市から離れた郊外に豪華な別荘を建てた。グヌンサハリ通りの西
側、その完劫寺が建っている場所だ。

かれは1647年から1653年までの間に二度長崎出島のオランダ商館長を務め、台湾
でVOCが占領した地区の最後の行政長官(1662年に敗戦)となったフレデリック・
コイエットの孫であり、アンボンの行政長官に就いたこともある父のバルタザール・コイ
エットにならって、三代に渡ってVOCに奉職した。[ 続く ]