「グヌンサハリ(5)」(2018年04月27日)

F.J.コイエットが1733年、VOC使節団を率いてカルタスラのマタラム王を訪問
したあと、使節団の一員を務めたロン(C.A. Lons)がその際に訪れたプランバナン(Pram-
banan)とカラサン(Kalasan)のチャンディで手に入れた石仏を上司のF.J.コイエット
に進呈したという話がある。F.J.コイエットはまたスリランカで石仏やヒンドゥ教の
神像などを手に入れてバタヴィアに持ち帰ったという話もあり、どうやらかれは石仏の本
格的なコレクターだったらしい。そんなかれが、新築した別荘に自分のコレクションを並
べまくるのは当然の話だ。

F.J.コイエットが妻にしたのはウエストパーム(M. Westpalm)の寡婦だったヘルトラ
イダ・マルハレータ・ホーセンス(Geertruyda Margaretha Goossens)だ。われわれはその
ウエストパームの墓碑を碑文博物館(Taman Prasasti)で目にすることができる。

1736年にF.J.コイエットが没すると、再び寡婦となった妻は1737年にヨハネ
ス・テーデンス(Johannes Thedens) と再婚した。ヨハネス・テーデンスは1740年か
ら43年まで第26代VOC総督の座に就いた。

F.J.コイエットには子供がなかったため全財産は妻が相続した。かの女はヨハネス・
テーデンスと再婚してから1758年に死去するまでの間に、遺産の一つであるその別荘
を売った。そして何人かの手を経たあげく、1761年にヤコブ・モッスル(Jacob Mossel)
の手に渡った。1750年から1761年まで第28代VOC総督となったあのモッスル
だ。


シモン・ジョゼフ(Simon Josephe)がヤコブ・モッスルからそのグヌンサハリの邸宅を買
ったのは、完璧な投機目的だったらしい。というのも、1760年にカピテンチナの林吉
哥(Lim Tjipko)が墓所のための土地を確保するためにどうするかについて部下であるレッ
ナンチナたちを集めて合議しているからだ。

いったい誰が言い出したのかわからないが、仏像がたくさん置かれているグヌンサハリの
総督別荘が仏教寺院にふさわしいのではないか、という意見が出されて、衆議はその方向
に傾いて行ったらしい。

カピテンリムは決を採り、華人社会から浄財を募って総督別荘を買い取ることにした。シ
モン・ジョゼフが6千フローリンという高い金額で物件を売り渡し、しぶしぶとこの取引
を仕組んだ者に口銭を渡しているシーンは想像に余りあるにちがいない。華人社会は牛郎
沙里の「?督的花園」購入に大いに喜んだ、と記されている。1888年になって、完劫
寺は公式に華人公館の資産となった。


グヌンサハリラヤ通り西側の、スネン市場からあまり離れていない場所に、運河で南と東
を区切られたパサルバル商店街地区がある。グヌンサハリラヤ通りとドクトルストモ通り
の交差点までは1.5キロもない距離だ。

パサルバル商店街地区の中央部に商店街があり、商店街の西側は商業施設や補助施設が多
いが、東側は住宅地で占められている。この商店街が設けられたのは1820年代で、ウ
エルテフレーデン一帯に住むオランダ人にとってのモダンショッピングセンターというの
がその位置付けだった。パサルバルが誕生する前はバタヴィア城市のすぐ南側にあるグロ
ドッ(Glodok)地区がバタヴィア随一のショッピングセンターだったから、ウエルテフレー
デン一帯に住むオランダ人にとって日用品のためのスネン市場とライフスタイルの欲求を
満たすパサルバルがこれで勢ぞろいしたことになる。[ 続く ]