「グヌンサハリ(6)」(2018年04月30日)

パサルバルはあたかも東京の銀座のような地位を得て、パサルバルを覗いてこなければバ
タヴィアを訪れたことにならない、と言われるほどの名声を誇る繁華街となった。その地
位はインドネシア独立後も持続し、オルバ期に入ってジャカルタのあちこちに商業センタ
ーが発展するころまで、名声を保ち続けた。

パサルバルをオランダ人はnieuwe marktと呼んだが、インドネシア語のパサルバルという
呼称も使った。ただしpasarがオランダ語化されたパッサー(passer)とバル(baroe)の文字
で表記されており、読み方もパッサーバルとなっている。

現在、運河を渡って商店街に入っていく入り口に建てられた中華風の大門にはPASSER 
BAROE 1820と書かれていて、古き良き時代へのノスタルジーがこめられていることを感じ
させてくれる。


先に登場したラウツェ通りからピントゥブシ通り一帯、パサルバル商店街地区、更にドク
トルストモ通り地区にかけての広範な地域が、1800年代後半には次々と住宅地区に変
貌して行った。

ドクトルストモ通りがオランダ時代にスホールウエフ(Schoolweg)と呼ばれたのはそこに
ELS(ヨーロッパ人小学校)があったからだ。元々ヨーロッパ人のための学校を意図し
て設けられたものだが、レシデン(州長官)の許可を得れば原住民でも入学できた。入学
したのは裕福な華人の子弟が多かったようだ。


1660年ごろの状況を描いたと思われる地図を見ると、海に臨んで建てられているカス
ティルからそのまま東に向けて海岸線が続いていることがわかる。それを見ると、当時の
海岸線はそのまま西アンチョルの住宅地区を横切り、アンチョルドリームパークをドゥフ
ァン(Dufan)の南側から切り取っていく形になる。

もし1681年の海岸線の位置がそれほど変化していなかったと仮定するなら、グヌンサ
ハリ運河の河口は今より5〜6百メートル手前にあったということになりそうだ。

ちなみに1656年に建てられたアンチョル要塞(Fort Ansjol)の位置を探って見ると、
アンチョルドリームパーク東ゲートからまっすぐアンチョル川に近寄った自動車専用道出
入口の辺りになっている。そこはカスティルから4キロほど東に当たり、1740年ごろ
には要塞守備隊の士官や兵士たちの住居や軍用倉庫などが周辺に建てられ、一円はほとん
どが湿地帯で運河や道路がある程度だったらしい。つまりアンチョルドリームパーク東ゲ
ートはその当時、まだ海の中だったのではないかと推測される。

地図には、バタヴィア城市の東城壁の外側に設けられた住宅地区の中央近辺からアンチョ
ル要塞に向かって運河が描かれており、それが現在のアンチョル川になっているのではな
いかと推測される。もっと南側の、今のマンガドゥア通りあたりにも運河が作られたよう
だが、今ではもう跡形もない。バタヴィア城市の東城壁の外側に設けられた住宅地区は、
現在のカンプンバンダン(Kampung Bandan)地区の位置にある。VOCがバンダ島を征服し
たのは1621年であり、それ以来、バンダ島からの奴隷がバタヴィアに連れて来られて
バタヴィア市街建設や諸雑用の労働力として使われた。メステルコルネリスを興したコル
ネリス・スネン氏もマルク地方から奴隷たちと一緒にやってきた聖職者だった。

カンプンバンダンはバンダ島から連れて来られた奴隷たちの集落だった。ジャカルタのあ
ちこちにあるカンプンバリやカンプンアンボンと同じだ。もちろんその事始めがこのカン
プンバンダンである。[ 続く ]