「グヌンサハリ(7)」(2018年05月02日)

一方、城壁の南側はピナンシア(Pinangsia)からピントゥブサール(Pintu Besar)〜ピント
ゥクチル(Pintu Kecil)そしてプルニアガアン(Perniagaan)通り南の全部、西側はプコジ
ャン(Pekojan)からグドゥンパンジャン(Gedong Panjang)の一円が住宅地区になっている
ので、南は華人集落いわゆるプチナン(Pecinan)、西はプコジャンの名が示すようにアラ
ブ人やインド人の集落だったように思われる。少なくとも城壁南側のグロドッ(Glodok)の
手前までの地区は、バタヴィア開闢以来の由緒あるプチナンだったと言えそうだ。

そしてその南側の、グロドッからハルモニに至る地域、モーレンフリートとグヌンサハリ
ラヤ通りにはさまれた地区、は耕作地帯として食用作物が栽培されていた。Kebun Jeruk、
Kebun Kelapa、Sawah Besarなどといった今にまだ残されている地名が、そのころの状況
を彷彿とさせてくれている。


そもそも、1678年に作られた幹線道路はバタヴィア城市とメステルコルネリスを結ぶ
ことが主目的だったのであり、メステルコルネリスとアンチョル、ひいては海岸をつなぐ
ことではなかったはずだ。バタヴィア城市から上述のジャカトラ要塞まではジャカトラ通
り(Jacatraweg 今のパゲランジャヤカルタ通り)が既に存在しているので、幹線道路はそ
こが端になれば用は足せたにちがいない。

その北端を更に現在のグヌンサハリラヤ通り北端まで伸ばしてアンチョル海岸へ行楽に出
かける城市住民の需要を満たそうとしたのは、その需要がいかに高いものであったかを示
すバロメータと見ることもできる。

バタヴィア城市住民にとって城市の北海岸部は、海に面しているとはいえ軍事地区である
ため、海遊びなどもってのほかだった。海浜の行楽を愉しむためには城市外東にあるアン
チョル海岸へ行って海風に吹かれたり、砂浜でふざけ合ったり遊んだりして城壁内の暮ら
しの憂さ晴らしをするしかない。言うまでもなく、アンチョル海岸の行楽需要はきわめて
高いものがあったように思われる。


1772年にVOC軍将校だったヨハネス・ラッハの描いたスケッチ画がある。当時スリ
ンガランド(Slingerland)と呼ばれた地区のビーチに繰り出したひとびとが、奴隷の掲げ
る傘の下で海風に吹かれながら保養している姿があり、海には遊覧の客船が客待ちで帆を
おろし、もっと小さい櫂漕ぎボートが何隻も遊弋している。海に向かって突き出した木製
の短い桟橋の手前で、ひとびとは望遠鏡を覗いたりしながらおしゃべりに余念がないよう
に見える。当時の海遊び浜遊びというのは、そのようなものだったのだろう。

西に回り込んで行く砂浜の海岸のはるか遠景にはバタヴィア政庁舎(Het Stadhuis Van 
Batavia = 現在のジャカルタ歴史博物館)の屋根やバタヴィア港一帯のありさまが望まれ、
港へ入るために海上で停泊中の多数の船がすべて帆をおろして列をなしている。

ブタウィ史家のアルウィ・シャハブ氏は、ヨハネス・ラッハの描いた場所がアンチョルの
ビナリア海岸(Pantai Binaria)だったと説明している。ビナリアであるなら、グヌンサハ
リラヤ通り北端から東へ1キロを超える距離にあり、反対にアンチョル要塞からは西へ5
百メートルほどの距離だ。

オランダ人ご愛顧のアンチョルの行楽地がそこだったとすれば、少なくとも、奴隷居住区
からは離れていたかったにちがいないから、カンプンバンダンからある程度の距離を取っ
たことは十分に考えられるのだが・・・・[ 続く ]