「プラムディア語」(2018年05月02日)

ライター: 国語学者、著述家、サロモ・シマヌンカリッ
ソース: 2005年12月9日付けコンパス紙 "Banyak Seorang"

12月26日のアチェが津波に襲われた一周年記念日を前にしてわたしの記憶によみがえ
るのは、プラムディア・アナンタ・トゥルがかれの80歳の誕生日に行ったスピーチだ。
2005年2月6日(日)にタマンイスマイルマルズキで開かれた質素なパーティで現代
インドネシア文学界の最前衛が述べた原稿なしスピーチのタイトルは「アチェの津波とイ
ンドネシアの将来」だった。

アチェは民衆の独特な勇気によって必ず復興することをプラムは確信していた。アチェの
民衆が持つ勇気とは、個人ひとりひとりの勇気だ。他の種族が織りなしているインドネシ
ア民衆の勇気というのは、集団の勇気である。「それがアチェを他の地方から異なったも
のにしている。」とプラムは述べた。

かれのバリトンの声調が聴く者の心を揺さぶるように、プラムディアのスピーチの中で聴
衆の心をもっとも揺さぶったのは、この言葉だった。
「勇気と性格について言うなら、アチェはbanyak seorangであるとわたしは言いたい。一
方、ジャワや他の地方ではbanyak orangなのだ。」


「banyak seorangという部分に心が揺さぶられた。プラムなる人物の威厳がそれだ。」プ
ラムディアと数人の文学者を、言葉を国籍とする言語ソサエティに区分している友人はそ
う語った。そのソサエティは、パワーのある文章や叙述をものしようとして、言葉とシン
タックスを相手に格闘するひとびとなのである。

banyak seorang。 それは、もっとも苦難な時代を克服し、それを乗り切ることを可能に
したアチェ民衆の個性を描写するプラムのイノベーション言語だったのである。ジャカル
タのたくさんの知識人たちが安易に自分の文章に外国語を持ち込むような方法に堕するこ
となく、かれは自分の言語を探究した。プラムは常に文法規則の限界に触れながら、言葉
の豊かさを盛り上げた。

banyakとは不定の数詞だ。この品詞は普通、名詞を従える。orangもそのひとつだ。banyak 
orangは普通の表現である。この句がどのくらい書かれ、あるいは話されているかは、数え
切れまい。そこにサプライズは存在しない。それは単に、合計数が明確にされない一群の
人間集団について述べているだけだ。

seorangというのは、satuを意味する数詞se-に名詞orangが合わさって作られた数詞句で
ある。プラムはbanyak seorangという表現の中で、seorangという数詞(句)を名詞の領
域に引き入れた。こうしてbanyak seorangという表現がわれわれの集合記憶をbanyak in-
dividuという意味に向けさせたのである。かれの語った「アチェはbanyak seorangであり、
ジャワはbanyak orangである」という文の中で、banyak seorangはbanyak individuより
はるかに強いパワーを感じさせることになった。


詩人スタルジ・カルツーム・バフリはソリチュードと題する作品の中で、その種の実験を
試みている。mawar, duri, sayap, bumi, pisauなどの言葉の品詞をかれは名詞から形容
詞に衣替えさせた。
yang paling mawar
yang paling duri
yang paling sayap
yang paling bumi
yang paling pisau


どうしてbanyak seorangなどと言えるのか?これはパラドックスではないか!
ふふ〜ん、かれらに匹敵する言語イノベータであるパラキトリ・T・シンボロンの業績を
見てみるなら、そんな西洋語はあまりビューティフルなものでないように思われる。

ドナルド・ブライアン・カルネ著作「Within Reason: Rationality and Human Behavior」
の訳書「Batas Nalar: Rasionalitas dan Perilaku Manusia」でかれは、a statement 
containing two opposite ideas that make it seem impossible or unlikely, although
it is probably trueと定義されたパラドックスの訳語としてsulawanを紹介した。

かれはパラドックスの訳語としてインドネシア語の中を掘り下げていった。そして、ヌサ
ンタラの諸地方語に受け入れられているサンスクリット語源の接頭辞su-とlawanを結び付
けた。その接頭辞su-はsunyataにおけるsu-と同じものだ。
banyak seorangはsulawanなのだろうか?