「グヌンサハリ(9)」(2018年05月04日)

1733年より前の時代には、バタヴィアのオランダ人たちは暑くて寝苦しい夜にしばし
ば屋外で睡眠した。ところが、その習慣が続けられなくなってしまったのだ。上級商務員
だったJ.A.パラヴィチニ(Paravicini)は報告書の中に、「昔からよく行われていて何
ともなかった屋外での夜の睡眠を一晩でも行うと、自分の身に何が起こったのかを誰かに
告げることなどもうできなくなってしまう。」と記している。

ひとびとは通風のために隙間が設けられていた住居の窓をすべて、ガラスを貼って隙間が
ないようにし、夜中でも閉め切って睡眠するようになる。バタヴィアの南には明るくて健
康で、爽やかな風が吹き渡る土地が広がっているというのに、そんな暮らしをいつまでも
続けていたいと思うわけがない。さっさとこんな暮らしは打ち捨てて、引っ越しをしよう。

モーレンフリート沿いの地区に北から南へと住宅建設の波が押し寄せ始め、同じようにし
てジャカトラ通りの邸宅の並びからも、ひとびとはグヌンサハリラヤ通りに移り住みはじ
めた。この南下の動きが18世紀を通して進展し、ダンデルスによるバタヴィアの政治軍
事センター移転に結実して行ったのである。

海岸部がマラリアの巣窟であるという当時の常識がバタヴィア城市から南へのシフトの原
因のひとつだったのだから、アンチョル地区の行楽地がその地位を維持できるはずがない。
住民人口のウエイトが南へ移るにつれて、アンチョルは置き去りにされていった。ちなみ
に、アンチョル要塞は1809年から1810年にかけて、ダンデルス総督の命令で解体
されている。


バタヴィアの中心地区がウエルテフレーデンに移った後、アンチョルに替わる海浜行楽地
がタンジュンプリオッの東側に開かれた。アンチョルから5キロほど東に離れたビーチで、
後に作られたタンジュンプリオッ鉄道駅からは1キロ半ほどの距離になる。オランダ人は
そこに故国の有名なリゾートZandvoortの名前を着けたが、インドネシア人はそれをSampur
という発音と綴りに現地語化した。

このサンプールは1800年代初期から既に人気の海浜行楽地となり、周辺には大型の別
荘が立ち並んで、ヨットクラブまで設けられた。インドネシアの独立承認後はサンプール
もインドネシア庶民のものとなったが、インドネシア庶民にとってはもっと東のチリンチ
ン(Cilincing)海岸が先に海浜行楽地としての地歩を築いており、サンプールで遊ぶ若者
もいれば、チリンチンへ行く家族連れもあるという形になったようだ。

1965年にスカルノ大統領の発案でアンチョルドリームパークの建設が開始され、19
70年代に入ってアンチョル海岸が再び海浜行楽地としてジャカルタ庶民の人気スポット
の地位にのし上がるころには、サンプール海岸の人気は峠を越えていた。そして1998
年に建設されたタンジュンプリオッ港コジャコンテナターミナルの中にその姿を没してし
まったのである。

一方のチリンチン海岸は、1944年にイスマイル・マルズキがその情景をRayuan Pulau 
Kelapa という歌曲に結晶させた時代の面影も時の流れとともに色褪せて、1980年代
になるとジャカルタ庶民の行く先はアンチョルへの一極集中となってしまった。[ 続く ]