「プラム式文体」(2018年05月04日)

ライター: 言語オブザーバー、著述家、スエーデン在住、アンドレ・モレン
ソース: 2006年6月2日付けコンパス紙 "Gayatulis Pram"

去る5月19日のこのフォーラムで言語オブザーバーのパムスッ・エネステ氏がプラムデ
ィア・アナンタ・トゥルの文学作品の核をなす言葉の表記法や単語の綴り方についての分
析を行った。氏の論説では、seharmal(sehari semalamの短縮語)やsassus(desas-desus
の短縮語)といったプラムの新造語に焦点が当てられ、更にプラムの習慣である二語から
成る熟語を単語化する点にも論旨が及んだ。たとえばterimakasih、orangtua、sepakbola
といった表記法だ。ではあっても、kereta apiやmata sapiなどのようにスペースで分離
させているものもある。実はそのことに関して、わたしもこのフォーラムで触れたことが
ある。(2004年8月7日付け)
プラムがどうしてそのような表記法を採ったのかを理解するのは、困難どころか不可能だ
ろう。

それがプラムスタイルなのか、あるいは出版社スタイルのいずれなのかについてパムスッ
氏は確信が持てず、「今後出される新版ではプラムの著作の綴りが見直される必要がある。
少なくとも綴り方の規則に沿ったものに改訂されて、読者に混乱を与えないように・・・」
と提案している。わたしにすれば、標準的文法規則から逸脱するような表記法に出版社が
変えて行くようなことをするとは考えにくい。ましてや、たとえそのように出版社が干渉
したのだとしても、少なくともプラムがそれに同意した結果であるはずだ。だからこそわ
たしも出版社にお願いしたいのは、新版でプラムの綴り方や表記法の見直しを行ってそれ
に手を加えるようなことをしないでいただきたいということだ。わたしの素朴な見解では、
そのような画一化はプラムの作品が持つ個性やパワーを失わせることにしかならない。言
い換えると、プラムの文体が標準文体に変えられてしまうのである。

一方、その文体が読者を混乱させるとしたら、どうなのか?それがプラムの偉大さであり、
かれの成功なのだ。ただ自分を混乱させてくれるばかりの文芸書を読んだ読者は、損した
と思わないだろうか?反対だ。かれらの言語世界は広がるのである。標準パターンから逸
脱し、時に一貫性を欠くプラムの文体は読者をうんざりさせないか?Tisali (Tidak sama 
sekali). その文体のゆえに読者は頭を働かせ、言葉を噛みしめ、新たな言語世界に足を
踏み入れるのだ。だから画一化や標準化は無用なのであり、そんなことをすればプラムデ
ィアの著作の価値は色褪せてかれの個性は消滅してしまう。プラムの作品が外国語に翻訳
されるときに、往々にして起こっているのがそれなのである。


この話はわたしの祖国で起こっていることがらを思い出させる。筆者の祖国ではいま、移
住者たちのスエーデン語能力に関する議論が盛んに行われている。議論の中心を成してい
る主張は、標準スエーデン語の理解と日常活動にそれを応用する能力がスエーデン社会で
の暮らしのすべての扉を開く鍵であるということだが、移住者たちは標準スエーデン語を
話さずに移住者式スエーデン語を使っている。文法規則の間違いを物怖じしないで使って
いるのだ。この移住者式スエーデン語は今やスエーデンで社会方言化している。

スエーデンの青年作家ユワン・ハッサン・ケミリの処女作品にはこの移住者式スエーデン
語が用いられて、標準文法規則から逸脱した文章が書物の中にあふれている。たとえそう
ではあっても、スエーデンでその作品は大いに関心を集め、種々の文学賞を得ている。そ
れはかれの文章が文法規則から外れているおかげなのだ。もしもケミリの作品が標準的で
正しく書かれたものであったなら、その作品は一般書籍の大河の底に埋没し、世の中から
たいした反応も得られないまま終わっただろう。かれが書いたストーリー自体は、かなり
ありふれた内容だったのだから。特別なものは、かれが使った言葉と文体にあったのだ。

だからわたしの見解としては、個々の作家の文体は保護され、尊重され、噛みしめられ、
さらに可能なら模倣されてしかるべきものであるということだ。芸術表現の自由の名にお
いて、標準化や画一化は避けられなければならない。わたしのこの意見は言うまでもなく、
文学作品(演劇脚本等を含む)と日常言語に限定される。文学作品と日常言語以外のもの
については、わたしは標準言語の信奉者であり、たとえば大統領決定書の文面に実験的言
語が混ぜられるようなことは望まない。

要するに、プラムディアの特徴は維持され、他の作家たちも芸術の世界で常に必要とされ
ているわけでない標準化に反抗する勇気を持ってほしいと期待している。