「グヌンサハリ(10)」(2018年05月07日)

そのおよそ2百年もの間、アンチョル地区は再び昔の森林と湿地帯という天然の姿に逆戻
りしていた。ジャングルに変わってしまえば、そこに入って暮らそうとする人間などいな
い。すると野生動物が棲みつく。特にアンチョルの森林は、数え切れないサルの大群の住
処と化した。もちろん、オオトカゲやワニや大蛇などさまざまな野獣が入ってくるのも例
外ではない。

人間の集落はなく、場所によってポツリポツリと住居がある程度の、暗く寂しいエリアに
なってしまった。犯罪者にとっては、逃げ込むのに最適な場所だったにちがいない。

ジャングルの中にあるのはせいぜい養魚場で、事業主は植民地政庁から借地してバンデン
魚(ikan bandeng)(日本名サバヒー、英語名milk fish)の養殖事業を行った。ジャワ島
の華人社会には陰暦(Imlek)正月にバンデン魚を食べる習慣がある。中国南部には正月に
魚を縁起物として食べる習慣があるのだが、ジャワ島華人はそれがバンデン魚でなければ
ならないらしい。おかげで年に一度の最大の需要期には、何トンものバンデン魚が養魚場
から出荷された。

もちろん、養魚場がほったらかしにされていれば、いつの間にか魚の姿は消え失せてしま
うわけで、だから見張り番が近くに住まなければならない。事業主はたいていがインドネ
シア人で、投資家から資金を得て事業を行う者が多かったようだ。だからかれら自身がそ
こに住み、見張り番を雇うようなことは少なかったにちがいない。


1960年代ごろ以前のアンチョルの状況を肌で体験した年寄りたちは、サルと言えばた
いていアンチョルを引き合いに出してmonyet Ancolという慣用句にして用いていた。アン
チョルのサルはカニクイザルの種で、しっぽが長く、海で泳ぐこともできたようだ。

アンチョルの森の付近を車で通る時には、みんなきわめて用心深く通行したそうだ。なに
しろ、車が通りかかると樹上からバラバラとサルが降りてくるのだから。サルたちの中に
コンドルと呼ばれた身体の大きいボス猿がいて、人間はみんなこのボスを怒らせないよう
に気を遣っていた。

アンチョルの森を抜けて海岸へ魚釣りやカニ獲りに行くひとびとは、サルの好物の豆を持
って行ったらしい。ジャングルの中を歩いていると、突然コンドルが行方をさえぎるのだ
そうだ。するとひとびとは用意してきた豆をコンドルに与える。コンドルはそれをもらっ
て引き下がり、ひとびとは海辺へ進めるというシナリオだった。

1960年代後半になってアンチョルドリームパーク建設工事が開始されると、あれほど
たくさんいたサルの姿が忽然とジャングルから消えてしまった。このきわめてミステリア
スな現象の真相は、実はミステリーでも何でもなかった。[ 続く ]