「グヌンサハリ(11)」(2018年05月08日)

アンチョル地区の警備に当たっていた警察の一員の話によれば、アンチョル海岸から膨大
な数のサルが一番近いプラウスリブの島に向かって、泳いで海を渡っていたそうだ。通り
かかった漁船がサルの群れを突っ切るわけにもいかず、往生していたという話だった。そ
のときサルの大群が移動した先の島はサル島(Pulau Monyet)と呼ばれるようになったらし
い。

動物学の専門家は、そのときの移住で全員が泳ぎ切れたわけでもなかっただろうと推測し
ている。途中で力尽きて沈んだ者もたくさん出たにちがいない。強い者が生き残り、弱い
者は滅びて行くのが自然の原則だ、と専門家は述べている。


アンチョルドリームパーク建設の話が出る前に、スカルノタワー建設という眉唾もののプ
ロジェクト構想が打ち上げられた。アンチョルにタワーを作って、クマヨラン空港にやっ
てくる飛行機を統御するというのがその主旨だった。そんな時代の民衆に航空力学の話な
ど分かるわけがない。

ブンカルノが作ると言っているのだ、という話で、養魚場事業主は安い金額で借地権を売
るようせっつかれ、そしてたくさんあった養魚場は埋め立てられた。ジャングルは切り開
かれ、そしてサルの大群は姿を消した。

ところがタワーの姿などいつまで経っても爪の先ほども出現せず、一方ではドリームパー
クの工事が進められていた。スカルノタワーは大陰謀だった、と言い切る歴史家も少なく
ない。


実はこのアンチョル地区の中に、ジャカルタ最古の仏教寺院がある。1650年に建設さ
れたと言われている大伯公(北京語読みDa Bo Gong、福建語読みTua Pe Kong)廟がその名
で、インドネシア名はVihara Bahtera Bhaktiという。入り口大門には惟徳馨(Wei De Xin)
と書かれた名板が掲げられている。

場所は東アンチョル住宅地区の真っただ中で、近くにはオランダ軍人墓地もあるが、相互
に特別な関係があるわけではない。軍人墓地は1946年に設けられたものであり、年代
的にもかけ離れている。

面白いことに、この寺には仏教・儒教・道教・回教の宗徒がやってきて、礼拝し、参詣し
ている。かれらの信仰対象が祭られているのだ。寺が建てられて以来、多くの人々がここ
へ参拝するようになり、今でもそれが続けられている。


インドネシアのあちこちに鄭和の航海に関連付けられた寺院が存在しており、この大伯公
廟のそのひとつなのである。船団はあちこちの土地を訪れると、使節だけでなく大勢の部
下たちが上陸してさまざまな任務を行った。

1405年から1433年までの間に7回鄭和が行った大船団による航海のいずれなのか、
はっきりしたことはわからないが、船団はカラパ、別名スンダクラパ、を訪れて、パクア
ンパジャジャラン王国を表敬訪問したにちがいない。

あるとき、カラバが洪水に見舞われていてそこに上陸できないことが判明したため、鄭和
はアンチョルに上陸するよう命じた。そのとき、鄭和の料理人のひとりも、厨房に必要な
ものを調達するために小舟を駆って上陸した。そしてかれは、自分の生涯を賭けて悔いな
い大切なものを爪哇島のこの地に見出したのだ、という話が語り継がれている。[ 続く ]