「グヌンサハリ(12)」(2018年05月09日)

インドネシアで鄭和を指す代名詞となっている三宝公(Sam po kong)または三宝大人(Sam 
po toalang)の料理人は三宝厨師(Sampo soei soe)と呼ばれた。三宝厨師は仲間たちと小
舟をアンチョル海岸の河口に乗り入れると、舟を一本の木につないで任務を果たすために
陸上を進んで行った。

かれが上陸した場所はビンタンマス(Bintang Mas)川の河口で、その辺りには漁民の部落
があり、アンチョル地区で数少ない人間の居住地域だったようだ。

原住民の集落で市を見つけると、厨房に必要なものをかれは調達しはじめた。するとその
とき、少し離れた場所で音楽に合わせて舞っている若い娘をかれは目にしたのだ。かれの
目は釘付けになった。

舞い終えて帰る娘がこちらへやってくるのを幸いに、かれは娘に声をかけた。
「わたしは三宝厨師のミンです。お近づき願ってよいですか?」

この娘を妻に得たいと思ったかれは、船団から離れてその地に残ることを決意し、仲間た
ちにそれを伝えて、自分は娘と一緒に娘の自宅へ向かった。

娘は名前をシティワティと言い、父親はサイッ・アレリ・ダト・クンバンというイスラム
布教者で、母親のエネンと共に娘を三宝厨師と娶せることに同意した。しかし、こうして
その一家は幸福に暮らしましたという話にはならなかった。


三宝厨師とシティワティ、そしてシティワティの妹のモネが次々と伝染病に倒れて世を去
った。三人の遺体はミンがアンチョルに上陸した時に舟をつないだ木の辺りに埋葬された。
あるとき、再び鄭和の大船団がやってきた。居残ったミンのことを覚えている仲間たちが
再会を期して上陸してきたが、ミンが婿入りした一家が既に全滅していることを聞かされ
たため、かれらはミンの墓に小さい廟を建てた。すると華人ばかりか、ムスリム原住民ま
でもが、そこへお参りするようになったのである。

こうして2百年もが経過したあと、バタヴィア建設が一段落ついた時期に華人たちがそこ
に立派な廟を建てたというのが、そのジャカルタ最古の寺院の縁起だそうだ。


ビンタンマスと昔から呼ばれてきた地区は1856年に、希代の冷血プレイボーイ「ウイ
・タンバッシア(Oey Tambahsia)」の事件で突然脚光を浴びることになった。かれはバタ
ヴィア法廷で殺人罪の有罪宣告を受け、1856年10月7日にバタヴィア政庁舎(Het 
Stadhuis Van Batavia = 現在のジャカルタ歴史博物館)表広場で絞首刑に処せられたの
である。

そしてかれが美女を幽閉してはその肉体に溺れる日々を送ったビンタンマス荘(Villa 
Bintang Mas)が、かれの所業を憎む庶民の手で略奪され、破壊しつくされた。ビンタン
マス荘はかれがその目的のためにビンタンマス地区に建てた豪華な別荘だった。
[ 続く ]