「ジャカトラ通り(2)」(2018年05月15日)

1628年1629年のマタラム王国軍バタヴィア進攻の際に攻撃の矢面に立たされたホ
ランディア要塞はそのバスティオンに区分されている。ホランディア砦が作られたのは1
627年だ。

1628年1629年のマタラム王国軍バタヴィア進攻の状況については、拙作「バタヴ
ィア港」< http://indojoho.ciao.jp/koreg/hlabuvia.html >の中で述べた。バタヴィ
ア城市設立以来はじめての存亡の危機を迎えたそのとき、上に述べた要塞はまだ存在して
いなかった。設けられたのはそれから二十数年経過した時期であり、つまりはそのころ再
び防衛態勢を強化する状況にバタヴィアは直面していたということにちがいない。それは
一体何だったのだろうか?


スルタン国「バンテン」の生い立ちは、拙作「バタヴィア港」で触れた。VOCがバンテ
ンの属領であるジャヤカルタを奪ってジャワ島における足場固めを行い、同時にそこを基
地にして東は日本から西は喜望峰までの地域を自己の商圏として通商活動に邁進している
間、バンテン王国はVOCの威勢に押されながらもコショウを中心とするスパイス取引の
市場としての機能を維持していた。

当時の経済競争が力ずくであったことは、数ある歴史の書物の中にあからさまに描かれて
いる。バタヴィア側はバンテンの通商を、海上封鎖する方法で妨害した。バンテンから商
品購入をする者はバタヴィアに来い、という態度だ。

バンテン側がそのような妨害や圧力を跳ね返すには、力で対抗せざるを得ない。国力の充
実による軍備拡張と有能な国家指導者の出現なくしては、そのような力は雲の上の月でし
かなく、得られなければ行き着くところは枯渇と崩壊であり、外敵の跳梁と蹂躙が結末と
なる。


1651年に期待されていた指導者がバンテンに出現した。第6代目のスルタン位に就い
たスルタン・アグン・ティルタヤサ(Sultan Ageng Tirtayasa)の時代を歴史家は、バンテ
ン王国の黄金時代だったと評価している。

スルタン・アグン・ティルタヤサは軍制改革を行ってヨーロッパ級の軍船団を持ち、多数
のヨーロッパ人を雇い入れて軍隊を強化した。ランプンの王国はバンテンがイスラム化し
た初期の時代から服属させていたが、スルタン・アグン・ティルタヤサは強化した軍事力
で西カリマンタンのタンジュンプラ(Tanjungpura)王国を攻めて1661年に征服してい
る。バタヴィアがその脅威に手をこまねいていたはずがない。防衛力強化に急遽着手した
のは当然だろう。

軍事力が強化されたバンテンが宿敵バタヴィアに対して攻勢に出たことも理の当然だった
にちがいない。その時代に宣戦布告などは無用のことがらであり、力がすべてを決めてい
たのだから、劣勢を覆そうとしてバンテンの武装兵やゲリラグループがバタヴィア側を襲
撃することは頻繁に起こっていたようだ。

VOCがジャヤカルタを奪ったころ、ジャヤカルタの周辺沿岸部から内陸部にかけて、つ
まり西ジャワ地方はすべてバンテン王国の領地になっていたのである。それがバンテンの
直領かジャヤカルタ領かの違いがあったとしてもだ。ジャヤカルタの王族貴族がジャティ
ヌガラに逃れたのは、そこがジャヤカルタにもっとも近い拠点のひとつだったことに加え
て、バンテン側の王族でそこに関りを持つ階層も存在していたからだ。[ 続く ]