「ジャカトラ通り(3)」(2018年05月16日)

ジャティヌガラがメステルコルネリスの名前でバタヴィア領としての位置付けを深めるよ
うになれば、優先度の高い攻撃対象に置かれることは間違いがあるまい。メステルコルネ
リス要塞が完成したのは1734年だが、要塞になる前はそこにメステル守備軍の住居や
施設が置かれていたらしく、その土地の地名がBukit Duriになっているのは、バンテン王
国からのゲリラ部隊の襲撃に対する防御として、地区一帯を鉄条網で覆ったことに由来し
ているとの話だった。

スルタン・アグン・ティルタヤサは1683年まで王位にあったが、1680年を過ぎた
ころから長男のパゲラン・ダマル(Pangeran Damar)を筆頭に29人の王子王女を持った
かれを悲運が襲い、この英傑の晩年を暗いものにしてしまった。父子の意見の相違からパ
ゲラン・ダマルが父スルタンを王位から追放しようとしてVOCと手を結んだのである。

VOCがバンテンを骨抜きにしようとして、その王宮に見えない糸を深くからみこませて
いたのは言うまでもあるまい。VOCはランプンの支配権を代償にして、パゲラン・ダマ
ルに軍事支援を与えた。後にスルタン・ハジ(Sultan Haji)の呼び名で定着しているため、
ここからパゲラン・ダマルをスルタン・ハジと呼ぶことにする。


スルタン・アグン・ティルタヤサとその味方に着いた王子たちに対して、スルタン・ハジ
とVOCの連合軍が軍事行動を開始する。王宮から逃れたスルタン・アグン・ティルタヤ
サの側は新たな宮殿を設けてそこをティルタヤサと名付けた。一方、従来のスロソワン王
宮でスルタン・ハジが即位する。

両者の間で戦争状態は継続し、1682年12月28日にティルタヤサ王宮はスルタン・
ハジとVOC連合軍によって陥落した。スルタン・アグン・ティルタヤサと王子たちは西
ジャワ内陸部に逃れて徹底抗戦を図ったものの、スルタン・アグン・ティルタヤサは19
83年3月14日に捕らえられてバタヴィアに送られ、幽閉された。


父スルタンを支援して戦ってきたパゲラン・プルバヤ(Pangeran Purbaya)とシェッ・ユ
スフ(Syekh Yusuf)の軍勢を掃討して叛乱首謀者を捕らえるために、スルタン・ハジとV
OCはその任務をバリ人のウントゥン・スロパティ(Untung Suropati)中尉麾下のバリ人
部隊およびヨハネス・モーリッツ・ファン・ハッペル(Johannes Maurits van Happel)中
尉率いるヨーロッパ人部隊に与えた。

この部隊は1683年12月14日にシェッ・ユスフの支配下にある地区を制圧してシェ
ッ・ユスフを捕らえた。状況がますます不利になって来たパゲラン・プルバヤはついに降
伏を決意する。パゲラン・プルバヤは条件を出した。グデ(Gede)山に潜んでいる自分を
迎えに来てバタヴィアへ護送するのは、プリブミ将校に率いられたプリブミ部隊でなけれ
ばならない。[ 続く ]