「ジャカトラ通り(4)」(2018年05月17日)

ウントゥン・スロパティの部隊にヨハン・ライシュ(Johan Ruisj)大尉から、パゲラン・プ
ルバヤを捕らえてバタヴィアに護送する任務が命じられた。ところがバタヴィアへ向かう
途上で、バリ人部隊はウィレム・クフラー(Willem Kuffeler)麾下の部隊に行く手を阻まれ
たのである。

捕虜の引き渡しを要求されたウントゥンは、相手がヨーロッパ人だったために仕方なく従
ったところ、パゲラン・プルバヤの取り扱いがあまりにも非人道的であるのを目にしたウ
ントゥンがクフラーに怒りを燃え上がらせた。ウントゥンの部隊はパゲラン・プルバヤを
保護しようとしてクフラー部隊に挑みかかる。そして1684年1月28日にチカロン
(Cikalong)川でクフラー部隊を壊滅させた。こうしてウントゥン部隊は、反乱軍としてV
OC軍のお尋ね者になってしまうのである。

このウントゥン・スロパティの物語はこれから佳境に入るのだが、この先は別の機会に譲
ることにしよう。


スルタン・ハジを掌中に握ったVOCがバンテン王国を属国の位置に落とし込むのに、も
はや苦労はなかった。1684年にバンテンの通商権をVOCが一手に代行する条約が結
ばれている。加えて、スルタン即位の承認もVOCが与えることが慣習化したのである。

オランダ人に鼻先を引きずり回されてもおとなしくしていたそんなバンテン王国にも18
08年に最期が訪れた。ナポレオン・ボナパルトに服属したオランダ本国から、ダンデル
ス(Herman Willem Daendels)が第37代総督としてジャワ島に赴任してきたのである。

ナポレオンが最大の敵と認めていたイギリスのジャワ島占領を阻止することがダンデルス
に与えられた究極の使命だった。ダンデルスはジャワ島の軍事体制を大改造するために大
車輪の動きを始めた。

そのひとつがジャワ島西端にあってスンダ海峡に面したアニェル(Anyer)からジャワ島東
端バニュワギに近いジャワ海沿岸にあるシトゥボンドのパナルカン(Panarukan)に至る1
千キロ超の軍用道路建設である。わずか一年間で完成させたその突貫工事で、駆りだされ
た原住民の間に多数の死者が出たことから、インドネシアの国史に悪逆非道の烙印がダン
デルスの名に冠させる結果を招くことになった。ところが、その大郵便道路(De Groote 
Postweg)と名付けられた幹線道路はいまだにジャワ島の経済大動脈として機能しており、
われわれはそこに歴史の皮肉を感じ取ることになるのである。[ 続く ]