「ジャカトラ通り(6)」(2018年05月21日)

華人がオランダ人のお気に入りになったことは、華人社会を統率するカピテンチナの初代
を務めたソウ・ベンコン(Souw Beng Kong)がバタヴィア上層部から優遇されていたこと
や、ハヤムルッ(Jl Hayam Wuruk)とガジャマダ(Jl Gajah Mada)のニ路にはさまれたモー
レンフリート(Molenvliet)運河の建設を第二代カピテンチナのポア・ビンアム(Phoa Bing 
Am)に請け負わせたことなどの点に見ることができる。モーレンフリートは1648年に
完成した。


だが、自分はヨーロッパ人だと思っているポルトガル系メスティーソは大勢が既にバタヴ
ィア住民になっており、かれらの宗教生活がいつまでも掘立小屋をベースにしているので
はみっともない、という感情がオランダ人の胸にも湧いたにちがいない。

ピーテル・ファン・ホールン(Pieter van Hoorn)の肝いりで1693年に掘立小屋の建て
直しが開始されて、1695年に完成した。このピーテル・ファン・ホールンは明との交
易を望んだVOCが交易使節として明の宮廷に派遣した人物であり、初期のバタヴィアで
かれは要人のひとりだったということだ。

かれは第二代総督ヘラール・レインスト(Gerard Reynst)の孫娘を妻にし、息子のひとり
ヨーン・ファン・ホールン(Joan van Hoorn)は第17代総督になっている。

オランダ人は建て直された教会をPortugeesche Buitenkerk(城外ポルトガル教会)と呼
んだが、現在はGereja Portugisという名称よりも、むしろGereja Sionという名前で通っ
ている。このグレジャシオンは今日でもまだ教会として使われており、三百年を超える長
年月の間、同じ目的のために使われ続けてきたジャカルタで数少ない建物のひとつになっ
ている。 


全長2.4キロほどのこのジャカトラ通りのちょうど中間地点あたりにバタヴィア初の華
人墓地が作られた。南からマンガブサール13通りが突き当たってくるエリアで、道路の
北側だ。この墓地にプチナンを統括する統領として指名された初代カピテンチナのソウ・
ベンコン(Souw Beng Kong)も葬られた。と言うよりも、ソウ・ベンコンを葬るために墓
地が作られたという方が当たっているようだ。

ソウ・ベンコンが没したのは1644年であり、かれはバタヴィア城市南城壁外のプチナ
ンの秩序と治安の確立に大きく貢献したことから、バタヴィア上層部からジャカトラ通り
中ほどに広大な邸宅を与えられており、その家で没したかれを葬るために急遽広大な庭の
一部に墓を設けたという説がある。その後1650年ごろから、ソウ・ベンコンの墓所周
辺に華人社会の有力者たちの墓が作られて華人墓地になっていったそうだ。[ 続く ]