「ジャカトラ通り(7)」(2018年05月22日)

ところがもうひとつの説によれば、ソウ・ベンコンの邸宅はバタヴィア城市内のテイヘル
スフラフツ(Tijgersgracht 今のJl Pos Kota)にあり、かれはそこで没したとのことで、
遺族はかれの個人所有になるヤシ農園(広さ2万平米)にかれの墓を設けたという話にな
っている。その墓の周囲においおい華人社会有力者の墓が増えて行ったストーリーは同じ
だ。

ソウ・ベンコンの墓は今現在もジャヤカルタ通りの中間地点北側に存在しており、164
4年にそこに豪壮な邸宅が存在したのか、それとも広大なヤシ農園だったのかははっきり
しない。

ただ上の二説の蓋然性を検討してみるなら、VOC上層部との密接なコンタクトを必要と
するカピテンチナであれば城市内に居住するほうが自然であるようにわたしには思われる。
だとするなら、1640年代のジャヤカルタ通りは人家のまばらな、広大なヤシ農園のあ
る、まだまだ市街地化からはほど遠い状況だったように思われる。

この通りの周辺に豪壮な邸宅が並び、ヒーレンウエフ(heerenweg 貴顕通り)と呼ばれるよ
うになるのはもっと後の時代だったのではないだろうか。その年代がいつごろだったかは
さておいて、1733年から始まるバタヴィア城市内の病死禍が華麗な住宅地となったジ
ャカトラ通りをも襲ったことは想像に余りある。豪壮な館の主たちは一族郎党を引き連れ
てもっと南東のグヌンサハリ通りや南西のモーレンフリート沿いに移って行った。

ジャヤカルタ通りが現在われわれの目に映っている「半ばスラム化した街区」と化してい
くのは、はたしてそれが発端だったのだろうか?


ジャヤカルタ通り北端からグレジャシオンに沿って下ると、すぐ南側に自動車のショール
ームがあって、道路は東南向きに角度を変える。ヒーレンウエフと呼ばれた時代には、そ
のショールームのある付近にも、ヒーレンの名前にふさわしい豪壮な邸宅が建っていた。

グレジャシオンから一軒おいた、通り北端から三番目の邸宅に、当時権勢を誇ったバタヴ
ィアの名士で巨大な財産を誇る一家が大勢の奴隷や使用人にかしずかれて住んでいた。父
親はドイツ人で、その名をピーテル・エルベルフェルト(Pieter Elberfelt)と言い、かれ
は自分の姓をよくエルフェルト(Ervelt)と縮めて書いた。

その家には欧亜混血の息子がおり、子供の母親はシャム人で、その子はセイロンで生まれ
た。生まれたのは多分1660年代半ばごろだったようだ。[ 続く ]