「ジャカトラ通り(8)」(2018年05月23日)

その時代、VOC駐在員にとって結婚はたいへん困難であり、アジア人女性をニャイにす
る習慣は既に行われていたが、ニャイを連れて旅したり転勤することなどもってのほかで
あったことから、その欧亜混血の息子の生母がバタヴィアの邸宅で一緒に暮らしたかどう
かは可能性が薄いように思われる。

たとえそうであっても、幼い子供を世話する女性が必要とされたのは間違いがなく、バタ
ヴィアではジャワ人女性が母親代わりを務めた可能性が高い。母はジャワ人だったという
インドネシア人歴史家の説があるのだが、公的機関が出している情報はシャム人女性で統
一されているので、それに従っておくことにする。


もともとピーテル・エルフェルトはドイツで皮加工職人をしており、VOCに雇用されて
アジアに派遣された。いつからバタヴィアに住むようになったのかについては詳しい資料
が見つからないが、VOCの職務から離れたかれはバタヴィアで最高参事会(Collage van 
Heemraad en Schepenen)副議長を務めたことがあるようだ。有能で裕福な人物がジャカ
トラ通り北部に邸宅を構えたのは、そのあたりの格式に則したものだったにちがいない。

息子の欧亜混血者は父親と同じ名前を与えられた。そのピーテル・エルベルフェルト
(Pieter Erbelveld)ジュニアが没した父に替わってその家の主になったのがいつのことなの
か、それもよくわからない。ともかくかれは、ヨーロッパ人であることを証明するエルベ
ルフェルトの姓と、父が築いた財産そして社会的名声を相続した。かれは良家の娘を妻に
している。良家の娘という表現はヨーロッパ系の家庭を意味するのが普通だ。

そうやって歩み始めた平穏な暮らしから、かれは突然奈落の底へ突き落されることになる。

父から受け継いだポンドッバンブ(Pondok Bambu)の数百ヘクタールの土地を1708年
にバタヴィア政庁に没収されたのである。公証人による土地譲渡証書が作られていないた
め公認されたものでないと判断される、というのがその理由だったが、第17代総督ヨー
ン・ファン・ホールン(Joan van Hoorn)がその土地を手に入れたいために起こしたことだ
と言われている。それに追い打ちをかけて、無許可の土地を勝手に使用していたのだから、
稲束3千3百本を罰金として納めよとの命令が加えられた。

その仕打ちに強い抗議を表明したピーテルに対してバタヴィア上層部側は、その不遜さに
嫌悪の情を抱いた。世の中は鏡である。自分が相手に対して抱く感情は、相手の心理に潜
入して相手の感情を同じものに変えて行くのだ。

オランダ人に対する深い憎しみがピーテルの内面に沈潜した。プリブミ社会はピーテルに
同情した。プリブミ社会で人気が高まるピーテルにオランダ人社会の嫌悪感が強まってい
く。[ 続く ]