「発音について」(2018年05月24日)

ライター: 短編小説作家、ソリ・シレガル
ソース: 2016年7月9日付けコンパス紙 "Lafal"

言語専門家JSバドゥドゥ氏の論説によれば、東部インドネシア地方のひとびとはmen-
terengの語を発音するとき、第二第三音節の/e/を強母音にするひとと、第一第三音節を
そうするひとがあるそうだ。

アクセントの位置も違っている。一般的にアクセントは第二音節に置かれることが知られ
ている。ところが東部インドネシア地方では、第一音節にアクセントが置かれている。各
地方ごとに方言の違いが存在していることが、この現象を生んでいる。言語の関連でわれ
われは、地域方言と言語様式なるものについて知っている。ここで取り上げたmentereng
の語のバリエーションは、地域方言と会話様式の双方に区分できるにちがいない。

さまざまな地域に由来する各種族の発音を統一することは明らかに不可能だ。違いは常に
発生する。だから辞書は標準的な綴りと発音を定めることができても、現実生活の場では、
綴りは確かに標準化できるだろうが、発音はある地方で習慣的に使われてきたものに合わ
せて、各種族が好き好きに行うのに任せるしかない。

インドネシア語を含めて、すべての言語は発展する。辞典がおりにふれて改訂され、収録
語が増加していく理由はよくわかる。ところが、新たに収録された単語に混じって、古く
からある単語の綴りが変えられて行くものもある。たとえばインドネシア語大辞典(KB
BI)初版(1988年)では、petaという単語に関して第一音節の/e/にアクセントが
置かれている。

ところが、KBBI第四版ではpetaの語にアクセントが表示されなくなった。どうしてそ
んなことが起こったのか?われわれにその理由はわからない。辞書内に記されている語義
には、まったく変化がないのだから。この綴り表記に起こった変更が発音に変化をもたら
すことは疑いがない。

似たような変化は、従来mesjidと綴られてきたmasjidの語にも起こっている。言語専門家
のひとりによれば、masjidの語はMasjidilharamやMajidilaksaの語に関連させたからだそ
うだ。であるなら、どうして最初からmasjidの綴りを用いなかったのだろうか?この変更
は従来からmasjidでなくmesjidの綴りに合わせて発音してきたひとに対して、発音の変化
をもたらさないだろう。子供のころからムスジッという発音を用いてきたひとたちは、綴
りがmasjidであってもmesjidの発音を続けるだろうし、かれらがMasjidilharamやMasji-
dilaksaの文字に接した場合は、その綴り通りに発音して使い分けるだろうから。

subyektifの語がなぜsubjektifという綴りに変えられたのだろうか?これも疑問のひとつ
だ。多分objektifが最初からその綴りで書かれ、obyektifと書かれたことがないのに関係
しているのかもしれない。

アクセント記号が添えられていない単語でしばしば誤った発音がなされている。たとえば
senjangの語。KBBIの初版から第四版に至るまで、その語は/e/にアクセントが置かれ
た形で発音されるようになっているのだが、それを正しく発音するひとはめったにいない。
ところがミナンカバウ語出自のその語を正しく発音すると、聞き手はきっと話者が会話様
式の中に地方語を混ぜ込んだように思うだろう。


外国語にも非一貫性はもちろん存在する。同じ綴りなのに発音が異なる。たとえば英語の
dullとpullだ。ullの三文字が表す音は同一でないのである。

インドネシア語にも同じことが起こっているようだ。綴りが変化するなら、発音も変わる
べきだ。ところが綴りが変化しても、それに合わせて発音を変えることをしないひとがい
る。それまでの発音に慣れきってしまったためだろうか?

綴りが変化したとき、その発音の違いでひとが喧嘩することのないようにしてほしい。そ
れはわたしのふたりの友人の間で実際に起こったことだ。これは大勢のひとびとの間でも
見られる現象のひとつである。produkという単語の綴りを変えないまま、ひとびとはそ
れをprodakと発音している。日常会話でも頻繁に起こっているし、電子メディアでも印
刷メディアでも、インタビューの中でそれが起こっている。将来KBBI第五版の中で、
その発音が標準と見なされるようにならないとも限らない。十分にありうることではある
まいか。