「ジャカトラ通り(14)」(2018年06月04日) 「ジャカトラ通り(14)」(2018年6月4日) 判決。市民ピーテル・エルベルフェルト、バタヴィア生まれ、父白人、母黒人、年齢58 あるいは59歳。カルタドリヤ別名ラディン、カルタスラ出身ジャワ人。・・・・・・・ われわれ裁判官一同は汝らを死刑執行人に引き渡し、次の方法で処刑される。各々は十字 架に縛り付けて右腕を斬り落とし、腕・脚・胸は焼けた金テコではさんで肉をバラバラに する。胴体は下から上に切り裂き、心臓を顔に投げつける。その後、首をはね、柱の上で さらし者にする。バラバラにされた身体は城市外に放置して野鳥の餌食とする。 死刑判決を受けた者は19人で、そのうちの3人は女性だったそうだ。ティオ・イェ・ス イ氏の小説では、サリナの母がそのひとりで、かの女は絞首刑になったと記されている。 サリナは逮捕されなかったが、一月後に貧民地区の小屋で世を去った。判決文にある残虐 な処刑法が19人全員に適用されたのか、それともピーテルとカルタドリヤに対して行え ば十分だったのか、その辺りの情報は手に入らない。 さまざまな記事を読むと、その処刑方法の中に、死刑囚の身体を4頭の馬に括り付け、馬 を四方向に突っ走らせて身体を四つに引きちぎることが行われたと書かれているものに出 くわすのだが、それが判決文の方法に追加されて行われたのか、判決文の方法を採らない 者に適用されたのか、詳しい話は見つからない。 右腕がなくなっているのだから四頭の馬につなぐのは難しいだろうし、胴体が既に切り裂 かれていれば、それを更に四分割することを処刑人が喜んで行ったとも思えない。その時 代、処刑人はショーの花形だったのだから、奇妙な式次第を渡されて事務的に事を行った とは考えにくいのである。 処刑が行われたのは1722年4月22日で、犯罪者の処刑は普通バタヴィア政庁舎前広 場(今のジャカルタ歴史博物館前広場)で行われるにも関わらず、ピーテルとその一党の 処刑はその後プチャクリッ(Pecah Kulit)と呼ばれるようになったジャカトラ通り南側の空 き地で行われた。[ 続く ]