「南往き街道(2)」(2018年06月08日)

スンダ王国は首都の名前をとってパジャジャラン王国とも呼ばれる。パジャジャラン王国
の威勢が陰り始めたのは、ドゥマッ(Demak)やチルボン(Cirebon)に興ったイスラム国家
がイスラム化との二人三脚で周辺のヒンドゥブッダ社会に対する変革と支配に向かい始め
たのが発端だった。その勢力伸長に脅威を覚えたパジャジャラン宮廷は、マラッカを攻略
した反イスラムの急先鋒であるポルトガル人と手を結ぼうとする。

ポルトガル人にとってはジャワ島西部に寄港地を持つことが急務であり、更に将来のジャ
ワ島における足場を固めるためのくさびを打ち込んでおく必要性からも、パジャジャラン
王国の置かれている立場を奇貨として、同盟への働きかけを熱心に行った。パジャジャラ
ン王宮上層部がマラッカのポルトガル要塞に招かれたこともあったようだ。

一方のイスラム勢力側は、パジャジャラン王国のその動きを早急に制止するべきものとと
らえた。ポルトガルの軍事力が後ろ盾につけば、西ジャワのイスラム化は目途が立たなく
なる。

ポルトガルがマラッカ王国を滅ぼし、その地を奪ってほどなく、ドゥマッ第二代スルタン
のパティ・ウヌス(Pati Unus)がジュパラとパレンバンの王国を誘って1513年に百隻
もの大軍船団に5千の兵力を乗せてマラッカ進攻を行ったが、半分以上の船が沈められ、
多数の兵員が海のもくずとなり、ポルトガル軍事力の圧倒的強さを見せつけられたことは
記憶に生々しい。その後60年もの長期に渡って、中部ジャワ北岸地域の諸王国がパティ
・ウヌスの遺志を継いでマラッカ進攻を企てたものの、マラッカのポルトガル人はことご
とくそれらを撃退している。


ドゥマッ王国第三代スルタンのトランゴノがチルボン王国と共同でパジャジャラン王国と
ポルトガル人の提携を粉砕する動きに出た。パジャジャラン王国最大の海港バンテンと、
王都パクアンにもっとも近いカラパの港を占領するのがその戦略だ。

総大将をチルボンのスルタンの息子シェッ・マウラナ・ハサヌディン(Syekh Maulana 
Hasanuddin)、ドゥマッのスルタンの妹を妻にして義理の弟になったファタヒラを戦闘指
揮官とするチルボンとドゥマッの連合軍は1526年に海路からバンテンに攻め込み、激
戦の末にバンテンを奪取して、その地をチルボン王国の属領に変えた。続いて1527年、
ファタヒラの率いるバンテン軍はカラパを奪い、その地をバンテンの属領にした。

時のパジャジャラン国王はスラウィセサで、かれの1521年から1535年までの治世
の間に15回戦争が行われている。バンテンに足場を築いたチルボン王国が、チルボンと
バンテンのふたつの軍事拠点から絶え間なく内陸部のパジャジャラン王国に向けて軍事行
動を行っていたことが、そこから見えてくるにちがいない。[ 続く ]