「南往き街道(3)」(2018年06月11日)

王都パクアンパジャジャランはイスラム勢による軍事攻勢に耐え切れず、ニラクンドラ
(Nilakendra)王(在位1551−1567)の時代に放棄されて王家は都を移した。そし
て王国最期の大王ラガ・ムリヤ(Raga Mulya)のとき、根拠地としていたパンデグラン
(Pandeglang)が制圧され、パジャジャランスンダ王国は1579年ついに滅亡するので
ある。
海港バンテンの攻防戦から半世紀を超える長期に渡って、パジャジャラン王国がイスラム
勢力からの軍事攻勢に圧されながらも耐え続けてきたことは、パジャジャランのひとびと
の精神的強靭さが並大抵のものでなかったことを示しているように思われる。
パジャジャランスンダ王国のパクアン放棄は、初代スルタンハサヌディンの息子で第二代
スルタンとなったマウラナ・ユスフ(Maulana Yusuf)の戦功だ。パクアンが陥落すると、
バンテン側はその王都を街として維持することに興味を示さず、破壊しつくして荒野に変
えたらしい。港湾都市を根拠地として通商交易を経済ベースに置いているバンテンにとっ
て、内陸部のボゴールを要衝として維持することに何のメリットも感じなかったというこ
となのだろう。

バンテンスルタン国を懐柔したバタヴィアは、奥地にある高原部への探検活動を開始する。
1687年にスキピオ(Scipio)とリーベーク(Riebeeck)の率いる探検隊がボゴール高原の
寂れた村に大きな街の遺跡を発見した。また、あちこちに散在していた碑文を発見して解
読し、そこにパクアンという王都があったことを知る。
しかしオランダ人のボゴール進出はずっと後になる。第27代VOCバタヴィア総督ファ
ン・イムホフ(Gustaaf Willem baron van Imhoff)が1744年に自己使用のためのヴィラ
の建設を命じたことで、ボゴールをオランダ人の保養地区とする方向での開発がスタート
した。当然ながら、周辺地区での農業活動も視野に入れてのものだ。
1750年に完成したファン・イムホフ総督の別荘は、その後代々の総督が使用するよう
になり、折に触れて改装が加えられた結果ヴィラの雰囲気ははるかに公的な宮殿の形に変
化して今日に至っている。現在の大統領専用ボゴール宮殿がそれだ。オランダ人によって
開発が進められたこの町を、オランダ人はバイテンゾルフ(Buitenzorg)あるいはサンスシ
(Sans Souci)と呼んだ。
ファン・イムホフ総督は一年後、チサルア(Cisarua)・ポンドッグデ(Pondok Gede)・チ
アウィ・チオマス(Ciomas)・チジュルッ(Cijeruk)・シンダンバラン(Sindang Barang)・
バルブル(Balubur)・ダルマガ(Darmaga)・カンプンバルの9ディストリクトをひとつの
行政単位にまとめてRegentschap Kampoeng Baroe Buitenzorgというレヘント行政区に
した。その結果、グデ・パンラゴ山系からサラッ山一帯の山岳地帯を含めてバイテンゾル
フという地名が定着することになる。[ 続く ]