「ったくもう(前)」(2018年06月12日)

他人が自分の期待に反することをおこなったとき、あるいは自分に迷惑がかかることをお
こなったときなどに、日本人の口から「ったくもう・・・!」という言葉が洩れることが
ある。

これは怒りや悔しさの感情がこめられた慨嘆表現で、「まったく」は「完璧に」や「本当
に」を意味する強調の言葉、「もう」は「もはや」と同義であり「事ここに至っては・・
・」という失望や困惑、あるいは慨嘆を表現している。

この言葉は元来「お前ってやつはまったくもう、愚図なんだから・・・」というような完
全な文章だったものの一部だけが取り出され、そこに話者が怒りや悔しさの感情を込めて
発言されるスタイルが一般化していったためではないかと考えられる。

インドネシアに住んで、地元民と交じって暮らしていると、類似のシチュエーションで同
じような感情を込めて、インドネシア人が「Dasar !」という表現をしていることに気が
付く。

KBBIでdasarの語義を調べると、
1.川や海等の水の下の地面
2.鍋や瓶などの一番下の部分(内側あるいは外側)
3.床
4.絵などの背景色をなす下地
5.(ペンキを塗り重ねる際のような)一番下の層
6.生まれながらの才能や性質
7.土台、基礎
8.教えや決まりなど、ひとつの考え方の基準や核心
9.(性格・振舞い・習慣などに関して)そうであって当然
などにお目にかかることになる。

日本語の「まったくもう」という語義論的意味合いにフィットするものは見つからない。
強いてあげれば、9番がその方向性を示している。
「お前はもちろん愚図なんだから・・・」

もちろんこの種のシチュエーション言語は、それぞれの文化によって言語形態、言語慣習、
行動様式や倫理的価値観が違っているために、語義論的同一性を求めようとする方が間違
いなくナンセンスではあるのだが。

ともあれ、インドネシア語環境の中でdasarの用法を見てみるなら、人間に対してdasarの
語が使わるケースというのは、上の6.と9.であることがわかる。そこから、9.は6.
が発展した結果としての語義であることも見えてくる。自己矯正の努力がなければ、そう
なって当然なのだ。[ 続く ]